10年

こんにちは。ブログの更新がまたまたすっかり滞ってしまいましたが
元気にしております。
5月は役所に提出する書類作成に追われ、それが何とか終わると同時に
「深川福々」初夏号の制作が大詰めになり、月末に発行。
少しホッとして6月を迎え、滞っていた諸々について検討しているうちに
史上最速の猛暑到来(笑)。7月となりました。


10年前のちょうど今頃、そら庵をやることを決意しました。
今年1月にアップした、「東海亮樹2DAYSご報告3」にも当時の文章を掲載しましたが
2008年7月の初めについに「やる」方向に舵を切り、それから一週間後に
不動産契約を結びました。
それからあの場所で流れた7年3ヶ月という歳月。
あのときの決意が「正しかったかどうか」について答えがないことだけは
確かです。
でもそれまでのことが前世ではないかと思うほど、自分の世界が変わりました。
(それは東海亮樹も同じでしたが、人生の継続性という点、そして
そら庵運営以前との断絶という点で、私の方が大きく一変しました。)
そして決意しなければきっと出会わなかった人たちばかり。
やっているときから、ずっとそう思っていましたが、
人生は不思議です。
10年後の今、もうそら庵が存在していないのは残念なことですが、
天から与えられた運命をまっとうさせられたのではないかと思っています。

6月下旬、久しぶりにここから撮影しました。

「かわら版 深川福々」第51号です(3月17日発行)

3月17日に発行した「かわら版 深川福々」第51号です。
すべての記事をお読みいただけます。ぜひご覧ください!
(現在は公式サイトではなく、こちらと「深川福々」facebookページに
jpegで掲載しています。)

第51号のご紹介です。

・ふかぷくインタビューは、江東区立八名川小学校校長の手島利夫さんです。昨年12月、八名川小は「第1回ジャパンSDGsアワード」特別賞を受賞。子どもたちが問題意識を持って考え、行動する力を伸ばすESD(持続可能な社会づくりの担い手を育む教育)には学びの可能性がいっぱいです。どんな教育なのか手島先生にお話を伺いました!

〔連載〕
・のりさんの口福 (イラストレーター・福田紀子)
清澄長屋に昨年オープンしたシュークリーム専門店「Pate a choux(パータシュー)」さんです。いつも何種類かのお味を楽しめて、散策のお供にもおすすめです! 江東区清澄3−3−30

・はっけよい 深川の相撲部屋(39)新入幕 敢闘賞篇(イナバリエ)
初場所で共に新入幕を果たし、敢闘賞を受賞した錣山部屋の阿炎(あび)関と高田川部屋の竜電関のお二人に、ご一緒にお話を伺うことができました! 

・人
海外から日本を訪れた旅行客のための深川ツアーを企画しているTRECK TRECK主宰、伊藤薫さんです!

・「深川・温故知新」〜写真で比べる昔と今
今回は江東区の「常盤一丁目」「新大橋一丁目」と書かれた昭和10年代の資料の写真です。戦災で焼けず、個人宅で保管されていたのを、このほど目にすることができました。

・ふかがワンダーランド
春と秋の年2回、深川資料館通り商店街で開催される美しいもの、楽しいもの、なんでも市「深川美楽市」。春は4月22日(日)の開催です。参加店舗や大道芸の出演者が年々増えて、ますます楽しいお祭りになっています!

・ふかぷくEYE (スタッフ・リレーコラム)
深川のまちにパン屋さんが増えています。スタッフが新しいお店を訪れました。

・4コマ漫画・鬼平太生半可帳

・おでかけINFO

表紙写真はTAP Gallery(江東区三好)の佐久間元さんの撮影です。

セクハラ報道へのつぶやき

仕事をするなら、人として、お互いに敬意を払い合って仕事したい。
縁あって接する人とも敬意を持って接したい。
そういう思いが一瞬にして崩れ去るのがセクハラでしょう。
今問題になっているようなセクハラではなかったけれど、
お店をやっていた頃、全然面識がない年配の男性客、2,3人から
「この店、一体何なの?」「はやってるの?」(笑)と突然言われて
ビックリしたことがありました。私が男だったら、あんなこと言わなかっただろうなあ。
人として不当に舐められるという体験が、日常的に接する相手だったら最悪ですね。
年齢や性別や立場の上下にかかわりなく
「人として同じ」とは考えられない人、考えたくない人は、
本当に多くの人を傷つけているので、社会からとっととご退場願いたい!


連日の報道で怒り爆発していたので、facebookの友人限定の投稿を
ブログにも転載しました。

「小名木川物語」上映会、次回は7月頃の予定です


(今年3月28日の桜と小名木川です)

映画「小名木川物語」、今年も上映会を何回か開催予定ですが、
私と監督の大西みつぐさんの都合により、
次回は7月頃となりそうです。
7月の開催いかんにかかわらず、6月初め頃までには具体的な告知を行うと思います。
お知らせは①公式サイト ②twitterfacebookページ ③本ブログ
という順です。(本ブログにも2,3日中には掲載できると思います。)
その後は年末まで、1回でも多く上映会を企画したいと考えています。
観たいという声をあちこちからいただき、お待たせしているのを
心苦しく思っていますが、必ず開催しますので、
どうぞよろしくお願いします!
昨年、上映活動への支援をお願いするクラウドファンディングを実施しましたが
ご支援いただいた方への特典=お返しとして、
このほどようやく公式ポストカードを制作しました。
大西みつぐさんのスチール写真、5枚一組です。綺麗です!
今後の上映会で販売します。
http://onagigawa.com/
公式サイトです。「撮影エピソード」などを随時アップしています。
エピソード、これからどんどん更新予定です。
記録を残すため、そして観た方に作品への理解を深めていただくのが目的ですが
(観ていない方が、観たくてたまらなくなったらいいなというのも(笑)
最終的には、その目的以上の「何か」も伝えられることを目指して書き進めます。
トップページの更新情報で確認できます。ぜひご覧ください。

深川福々創刊50号記念展が開催されました(3月11日)

久々の投稿となります。
2月中旬からいろいろなことに追われていました。3ヶ月ってあっという間ですね。
3月11日に1日だけ、「深川福々 創刊50号記念展」が
江東区深川江戸資料館の一角で開催されました。
開催期間が数日あれば、こちらでも告知したと思いますが、
今回は商店街の出店イベントに合わせての企画だったため、1日限りの展示でした。
しかし、ご提案いただいた資料館のご厚意がありがたく、
展示されたすべてのバックナンバーの前で、ご来場者や地元の方と
楽しくこれまでを振り返る機会となりました。

「深川福々」は「深々福々」として、2009年春に
深川資料館通り商店街のギャラリーカフェ「深川いっぷく」で創刊されました。
当時「深川いっぷく」マネージャーだった白濱万亀さんが発行人で、
お店とつながりのあるライターさんらが執筆を担当してスタート。

創刊号です。
創刊された2009年春は、そら庵でカフェを始めたばかりで怒涛の毎日。
そんなとき、白濱さんが創刊号を持って初めてそら庵を訪れてくれたと記憶しています。
第5号からお手伝いを始め、東海亮樹がインタビュー記事を執筆。
やがて発行を引き継ぐお話をいただき、2011年夏の第12号から
新しい編集体制となり、私(東海明子)が発行人、東海亮樹が編集長となりました。

第4号、5号、12号です。
3・11のときは、深川いっぷくさんから引き継ぎを行っていた頃。
あの揺れの途中で外に飛び出し、ご近所の方と呆然としながら立ちすくんでいたとき、
そら庵の建物が左右にしなっているのを目にし、壊れたら全部終わるんだろうなあと
思ったことを思い出しました。でもそうはならず、店を続け、
深川福々を隔月で出し続けることとなりました。

創刊以来、広告収入のみによるボランティア運営でしたが
昨年までの6年間、律儀に?隔月発行を続けてきました。
発行部数は12号の頃は7000部でしたが、現在はほぼ8000部に。
まちの皆様にさまざまなご協力をいただき、
折々に新しい方にスタッフに加わっていただき、
そして毎号手にとって、読んでくださる沢山の方がいたおかげで
ここまで続けられました。
写真の右上が昨年5月に発行した第47号で、
東海亮樹が編集長として最後に目を通した号となりました。

(展示会場で、第50号などを配付していました。)
誌面のスペースが限られていたことも大きいのですが、東海は編集長として
インタビューなどの取材執筆と、編集と制作に徹し、
「東海色」のあるエッセイなどは書かず、あくまで黒子でした。
先日、勤務先の方とミニ文集を制作したとき、
何か深川福々の文章をという話も出ましたが、
振り返ってみて、黒子記事ばかりだったと改めて気付きました。


私は取材やインタビューの場で一緒だったことも多く、
自ずと学ばせてもらいました。そのことに感謝しています。
信頼できる編集者がいなくなったことは大きいのですが、
今スタッフをしてくれている方もとても優秀なので続ける決断ができました。
ただ、勝手ながら今後はきっちり隔月刊ではなく、
季節によって3ヶ月間隔を空ける「年5回」の発行といたしました。

そういうわけで、前回12月の発行から3ヶ月空けて
3月17日に第51号(春号)を発行しました。
後日、記事の画像もアップします。


私自身ですが、人に会うことの面白さや
発見や学びの楽しみ、好評をいただいたときの喜びで、
今日まで続けることができました。
内容の変更で2013年頃から私も時々記事を担当するようになり(現在は毎号)
記事を書く機会がなかったら、
中途半端な知識や理解のままだっただろうと思うことが度々ありました。
「勉強」「成長」の場であったと思います。
そしてそら庵と同じく、この仕事を通じてできた人とのつながりは
自分の人生を豊かにしてくれたと感じています。


とはいえ、読むに値するものを定期的に作るという仕事を、
現在の体制で今後どこまで続けられるのだろうという気持ちも
正直言ってあります。
でも50号記念展という素敵なご褒美も頂いたので、
東海スピリットを引き継ぎながら、もうしばらく頑張ろうと思っています。

「東海亮樹2DAYS」ご報告3 東海が2008年に書き綴ったこと

2017年11月3日と4日に開催された東海亮樹を偲ぶ会の初日、
東海のさまざまな文章を朗読していただきました。
そのうち2008年のそら庵プレオープン前後に
SNSmixiに投稿したものをご紹介します。
東海と私は、2008年の3月末に初めて、そら庵となる建物を訪れました。
このときは「お店」や「カフェ」をやることはまったくと言っていいほど考えておらず
知人から建物の話を聞いて面白半分に見学に行っただけでした。
最初と2番目の投稿は偲ぶ会での朗読テキストには含めていませんでしたが
ここに掲載します。全部で6つです。
お金の話などw、内容の一部を省略、または改変しています。ご了承ください。
当時撮影した、最古の外観写真です(笑)

「必見!アトリエ付き住宅貸します」 2008年4月12日
不動産情報です。
こーーーーーーーんな物件、あなた(そう、あなたです!)しか借りません。
どんな賃貸住宅雑誌を探しても、
こーーーーーーーーんな物件、ありません。
なんか、催眠商法みたいですが。
だいじょうぶ、ですよ。


実は知人が江東区隅田川沿いに元印刷工場兼住居の一軒屋を購入しまして、
しばらくは建てかえて住む予定はないので、アトリエ付き住居として、
とくにアート系の方がいたら、何年かは貸したいという募集をしています。
場所は、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅を出発した芭蕉庵跡の隣。
住所では、江東区常盤1−1−1(ぞろ目好きにはたまらない)。
都営新宿線森下駅徒歩5分、隅田川のリバービューが一望できる絶好のロケーションです。
2階建て各約50平米で、1階は元工場、2階は6畳、6畳、3畳、3畳の間取りです。
広い。 しかし、
ぼろいです。
現状復帰必要なし。どういじろうが、
壁に絵を描こうが、壁新聞を張ろうが、壁抜けしようが、壁にぶつかろうが、
こうしようが、ああしようが、まったくOK。
どうですか、お客さん。
ご興味がございましたら、いつでも、ご相談ください。見学随時可。 (了)

自分たちで借りる気がなかったことがわかると思います(笑)
初めて内見したときの建物内部です。
次にご紹介するのはそれから2ヶ月後の投稿。
当時、同僚の自殺、友人の急死、そして秋葉原の無差別殺人事件があり、
複雑な思いを抱えている中で、そら庵をやってみたいという気持ちが
ふつふつと湧いてきた、と書いています。彼がそう考えていたことについて
私自身はすっかり忘れていて、今回の発掘で気づくこととなりました。


「そら庵計画・共犯者募集」2008年6月16日
人さまに言うのもなんですが、塞ぎ込むことばかりの日々です。
個人的にも、世の中から受ける心的すり傷(外傷ほどではないけれど…)。


キーワード的思考はもうやめたい。言葉は有機的にかつ身体的につながっていないと、まったく意味がない。
意味がない仕事をしていると考えるとつらいが、どうにか意味があることにしたいとは、しばらく考えない。
なにか思い付くまで、何もしない。何もしないことが一番つらいたちなのだが、
公的なことは何もしないと我慢することにした。


たとえば秋葉原の事件でもキーワードだけで語ってしまえば、意味が細るんです。
格差社会、非正規労働、アキバ、オタク、勝ち組・負け組
ケータイ、つながり、タガーナイフ、絶望、グローバル社会、などなど。
記事を書くということは、これをうまい塩梅で組み合わせるのが、うまい記事なのである。
それはそれでいい。それで、これまで飯を食ってきた。
しかし、腹の底からにじりだす言葉を失った。入り小細工のように技巧をこらした文章でも、
腹の底から出てきたものは、響くのだ。それができないと自覚したのなら、黙っていないといけない。


とはいえ、閉塞を嘆いていても前には進まない。前じゃなくても後ろでも斜め右上方でもかまわない。
偶然に降ってきた目の前のことから始めようと思い立った。
以前にも日記で募集したアトリエですが、この際、自分自身で「生かそう」と思っている。
芭蕉庵の隣だから、奥の細道に同伴した門下人の名前をとって「そら庵」とする。
名前は決まった。では、なにをするか?
とはいえ家賃がある。もうける気はまったくないが、というか、もうけないようにしたいのだが、
家賃分をとんとんにしたい。その枠組みでどうするか。
いまのところ思い付いた案を出しておく。


1階の印刷工場跡を「フリースペース」として開放したい。
個展をしたい人にはしてもらう。
音楽をやりたい人にはやってもらう。
詩を読んでもいい、朗読をしてもいい、
ある日、一日、借りた人間がやりたいものをやってくれればいい。
そうして、そこを使った人の横がつながっていってくれたらいい。
横には地域も巻き込みたい。その時はとんがってはいけない。
下町のじいさん、ばあさんにも喜ばれるゆるいねたもしなければいけない。
落語だって長唄だってかまわない。というか見たい。
もちろん、酒が飲める場所は作る。1日マスターみたいなかたちで、企画をたててやってもらってもいい。
私も「作文バー」をやる。なにがなんだか分からないだろうが、これは面白いのだ。
(注:少々省略)


「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」
せっかくだから芭蕉の言葉に従いましょう。精神的な旅人がゆるゆるとできる場所にしたい。
こんな企画ができるのではと思い付いた方や、2階に住んでもいいと思われる方、
よくわからないけれど賛同して知り合いにこんなことをしようとしているのがいると話してくれる方、
ぜひご連絡ください。(了)

5月から6月にかけて、近所にお住まいの方が
建物を借りてコレクションの展示会を開いていました。
ぼろい建物も、工夫次第でぼろさが気にならなくなることがわかりました。
そして6月末、借り手の有力?候補が現れたため、数日真剣に検討。
2階に住んでくれる人が現れたことにも背中を押され、
7月はじめ、ついに決断し、賃貸契約を結ぶことになりました。


「そら庵とは何か?」2008年7月7日
「そら庵」もついに現実に始動させることになりました。
(注:ここでmixiに「そら庵」準備委員会コミュニティを立ち上げたご報告)
正直に言えば、不安でいっぱいです。


経済的な心配もありますが、やはり一番重要なのは、
「そら庵とは何か?」ということを、何度も問い直すことだと思っています。
そうしないと、単にギャラリー、カフェを経営するということになってしまうし、
ビジネスをするのならば、「そら庵」を選ぶということはないからです。


文化の発信…
と言うことはたやすいのですが、こういう言葉は曖昧模糊で、
ともすれば空疎になってしまいます。


人とのつながり…
という言葉も同じだと思います。


しかし、やはり「そら庵」をやるということは、文化を発信したいし、
人とつながりたいということは、まさにその通りなんです。
音楽を作ったり、絵を描いたり、文章を書いたり、舞台をつくったりという
表現に踏み出した人たちを、僕は心から尊敬しています。
そして、音楽を聴いたり、美術を愛したり、本を読んだり、舞台を見るという
受け手の人たちを、僕は心から尊敬しています。


そして、こんなことを考えています。
表現をする人たちと、表現を受け止める人たちが、ともに「自分として現れる」、
その瞬間に立ち会いたいということです。
「そら庵」はとても小さな場所です。そこに加わってくれる人たちもまだまだ数少ないです。
でも、「自分が自分として現れる」という
小さな奇跡が起こせる場になるのではないかという夢を抱いています。
「自分として現れる」ということはもってまわった言い方かもしれませんが、
何か美しいものに触れたとき、何か楽しいことに遭遇したとき、何かに驚いたとき、
考えに考えた末にアイデアがわいてきたとき。人にはそういう瞬間があると思います。
それが「自分として現れる」ということではないかと、僕は考えています。


小さなことから始めましょう。大きなことにうそがあり、ペテンがあります。
小さな場所で小さな奇跡がつながっていけば、とても魅力的な場所になるのではないでしょうか?
と、僕はついレトリックを書いてしまうので、大げさでごめんなさい。
「そら庵」はもっとカジュアルで、寛容で、ユーモアのある場所にしたいです。
みなさん、かるーい気持ちでコミュに名前を置いていただいて、知恵を貸してくださいね。


僕にはできないことがいっぱいあるんですよ〜。
・空間デザインのセンスはまったく自信がありません
・字が下手ですw
・ベースギターが下手です(爆
・世界文学全集を読破していませんw
・10代のときにビートルズを聞いたことがありません^^;)
・人が目の前でけんかをしていると、すごく落ち込むんですシクシク


「そら庵」に関係あることもないことも含めて羅列してしまいました。すいませんw。
すでに協力していただいている方々に深く感謝し、
これから参加していただける方にI want youです。(了)


続いて7月下旬の投稿です。


「そうか文化祭だったのか」 2008年7月27日
駆け抜けた一週間だったなあと振り返ります。
そら庵の準備、夏休み前のばたばた原稿書き、その間にホット太極拳あり、送別会ほか酒飲みは続き…と。
一瞬、倒れかけたときもありましたが、でもいまは不思議と疲れていないんですね。


なんだろう、この感じ?
「そら庵」のコミュでも書きましたが、現在かなり「文化祭ハイ」になっています(笑)
そら庵でおまえは何をやりたいんだ? 意味がわかんね〜よと指摘されたこともありましたが、
そういう点では結構、自分に確信が芽生えてきました。


文化祭なんです。
ふと高校時代の文化祭を思い出しました。
ぼくは演劇同好会をやっていて、えらそうに作・演出なんかをしていました。
寺山修司とかベケットとかを生半可にかじって、
いま考えると顔から火がでる不条理劇のようなことをやっていたのですが、
そら庵をはじめて、さらに顔から火が出る思い出は…私は裏方作業はナマケモノでした。


高校の地理室を劇場にするために、仲間は部屋中に黒い模造紙を徹夜で貼ってくれました。
友達はこころよく大駱駝館のように全身を白塗りにしてくれました。
でも演出家の私はナマケモノでした。よく怒られました。
でも怒った彼らは楽しそうでした。じつは文化祭は手を使って作るから楽しいんですね。
私はその楽しみをやりそこねていました。
もう四半世紀も前の出来事ですから、反動というわけではないのですが、
そら庵を手作りしているのは、とても楽しいのです。


素人、道楽、意味がねー、と言われても、終わらない日常を突破して、
終わらない文化祭をやりたい、なんて考えています。
でも高校生じゃないんだから、一定の仕掛けは必要だとはもちろん思っています。
いま頭のなかにある空想、妄想をどう実現するか。そう考えるとわくわくします。


そして、一人の妄想だけではなく、集合妄想が現実となったときに、
何が起こるかというと…これは書きません。
歴史にさんざん使われる漢字2文字のことを実現したいのではなくて、
駆け抜けていくうちに気が付いたらそうなっていたということを夢想するからです。


てなことを思いつつ、今日は菓子折りをもって、
ご近所のみなさんに挨拶回りに言ってきます。 (了)

(7月19日に届いたカウンター。5000円でした。)
上の投稿を行ったのとほぼ同じ頃、当時ご協力いただいていた方々と相談して、
8月31日に「庵びらき」のイベントを行うことになりました。
まだシンクも、電気以外の熱源もなく、怒涛すぎましたが、
何もなくても音楽やパフォーマンスはできるだろうということで、
その日に向けてひたすら突進。結果は最高の一日となりました。


「嵐が終わった嵐の日」2008年9月22日
思い起こせば、激しい夏でした。

そら庵の立ち上げ、1年4か月ぶりのライブ(注:当時アマチュアバンドをやっていました)
仕事でも本業分野へのカムバックということが一緒にやってきて、
盆と正月と花祭りが一緒に来たような感じでした。
いろいろ反省する点も多いのですが、やったやったよかったよかったと、とりあえず総括をして、
四〇代(こだわってませんが)のスタートを切りました。


久しぶりに公私ともに予定がない土日で、そら庵を掃除して、ビールを飲んで、のんびりと過ごしました。
そら庵のほうは軌道にのったとはまったく言えない状況で、打ち上げをしてまだ大気圏を出ていませんが、
個別にはたくさんの出会いに支えられて、次の展開の芽が出てきたような感じはしています。
もちろん、成層圏を抜けて周回軌道にのせないことには、
あっという間に燃え尽きてしまう危うさがあるので、
熱くても熱くても空気摩擦にたえながら上がっていくしかありませんね。


最近、松本昌次さんの「わたしの戦後出版史」という本に感銘を受けました。
松本さんは、未来社という硬派の出版社で、売れなくても必死に戦後思想の本をつくり続けた編集者です。
書き手にとことんほれ込むというタイプの編集者で、その人に全生活をささげながらも、
夜は木下順二さんのもとで演劇運動にも関わっていました。
「なんで、そんな時間があったのか今でも分からない」という情熱がうらやましいと思いました。


その本のなかで、松本さんが、「今の時代は若い人に編集者になることは勧めない。
もし地方の人だったら故郷に帰って文化運動をした方がいい」と話していたのが印象的でした。
そういう時代なんだな…と思いました。難解であったり、風変わりであったり、反常識的であったり、
それでいて文化というもので何かを訴えたい、できれば人のためになるようなことをしたいと思うのであれば、
「マス」であることは自分をスポイルしていくことなのかもしれません。


待望するほど若くはないのですが、日本がこれだけ制度疲労してしまって、
多くの人が心を壊して、怒りとか憎しみが充満していても、それがまとまりにならないという時は、
歴史をみれば戦争や革命が起きる気配なのです。しかし、21世紀はいままでにない世界になってしまっていて、
ものごとはそう単純ではありません。
生きようとすればするほど「逝き過ぎてしまう」というような状況かもしれません。


とにかく小さなところから始めなくてはいけないな、と感じています。
小さなことからこつこつとではなくて、「小さい」ことそのものに意味があるように感じます。
出会った他者の一人一人の話に耳を傾けて、一人一人を大事にして、少しずつ同心円を広げて、
なんとか一緒に「まともさ」を見つけていくしかないのかもしれません。

松本昌次さんの言っていることが正しいのかどうかは分かりませんが、
そら庵をやっていく上で、とても励まされました。
「運動」と大上段にかまえる気はまったくありませんし、
空疎な大上段なら世間にいくらでもありますよね?


やはり、魯迅の言葉に戻ってしまうのです。
「希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。
これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、
歩く人が多くなると初めて道が出来る」(「故郷」より)


そして、やはり魯迅のように、戦闘的であって寛容、
狂いながら常識的というスタンスをとり続けたいものです。
以上、嵐だった日のつぶやきでした。 (了)


最後に2008年の暮れに書かれたものを。


「2008年の1」 2008年12月26日
思えば、である。


2007年の12月に、私は、あれこれあって、
寧波の日本語学校の教師になる予定だった。
それが、08年の12月にこうしていることって、
自分でもとても奇妙である。


ことしもあと5日。
自分語りもいいですよね。と連載。
今日は、すでにべろんべろんなので…


「2008年の2」 12月27日
自分の日記を読み返してみたら、
4月ごろには、まだそら庵物件を誰かに斡旋しようとしていた事実に驚愕。
私はまだ当事者ではなかったのか……4月。


「2008年の3」 12月28日
5月は大学の恩師が亡くなり、友人が自殺をした…つらいころだよ…まったく…


「2008年の4」 12月28日
それで、6月にそら庵をやることを決めた。
人生に起きることはばらばらのようでいて、じつは流れがあるのではと、思う。
(了)


今回ご紹介する東海の文章は以上です。
ちなみに同じ頃、私がmixiに投稿した駄文は閉店後に一度まとめました。
恥ずかしながら、ご興味がありましたら。
(私にも、私なりの「そら庵をやりたい」動機がありましたが、それについては
書いていません。墓場まで持っていくかもしれませんww)
http://d.hatena.ne.jp/sora-an/20161004/1475558132
翌年2009年の春、そら庵はカフェとしてもオープンし、出会う人の数が飛躍的に増えて
想像を超える出来事が続き、ますます怒涛の展開となっていきました。
特に飲食店を切り盛りすることになった私にとって一大チャレンジとなりました。
2階も新たな方が運営するギャラリーとして、人の集まる場所に変身しました。
しかし、東海が2008年に繰り返し語っていたことは、その後もずっと
そら庵の指針となりました。


2008年8月、ペンキ塗りにいそしんでいた東海です。
ちょっと手前味噌ですが、偲ぶ会で朗読を行った方、朗読を聞いた方の感想が
とても素敵だったので、転載いたします。みなさん、ありがとうございました。


故人の言葉を身体に通す、という行為。
人並み以上に多面的だった東海さんを、各人が見ていた側面を垣間見る思い。
そら庵はもうなくなったけれども、東海さんという人を媒体として、
より続いていく気がする。「そら庵メディア」ともいえるものかも。
(ヒフミさん)


『そら庵』を興した哲学を、彼の文章を朗読してみて初めて知る。
その哲学に、知らぬ間に映画作りを通じて巻き込まれていた自分を知る。
ぞくぞくと人が集まる状況に愛されていた彼を知る。
今回、急逝後はじめて『小名木川物語』を観て、奥様の明子さんの隣に彼がいない違和感。
やっと、不在を感じる。
(佐藤美佐子さん)


沢山書かれた記事、書評、つぶやきから抜き出された言葉を次々朗読するどの方も、
仕草や声を思い出し読んでいるようでした。
ジャンベやギターの音の中、壁のスライドショーの姿と合わさり、
ご本人の声と重なって聴こえるような錯覚に。
「本は栄養、映画は滋養、まちは涵養」が座右の銘とネットで知りました。
亮樹さん、ありがとうございました。
(ひのりずもさん)


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