「小名木川物語」上映会、次回は7月頃の予定です


(今年3月28日の桜と小名木川です)

映画「小名木川物語」、今年も上映会を何回か開催予定ですが、
私と監督の大西みつぐさんの都合により、
次回は7月頃となりそうです。
7月の開催いかんにかかわらず、6月初め頃までには具体的な告知を行うと思います。
お知らせは①公式サイト ②twitterfacebookページ ③本ブログ
という順です。(本ブログにも2,3日中には掲載できると思います。)
その後は年末まで、1回でも多く上映会を企画したいと考えています。
観たいという声をあちこちからいただき、お待たせしているのを
心苦しく思っていますが、必ず開催しますので、
どうぞよろしくお願いします!
昨年、上映活動への支援をお願いするクラウドファンディングを実施しましたが
ご支援いただいた方への特典=お返しとして、
このほどようやく公式ポストカードを制作しました。
大西みつぐさんのスチール写真、5枚一組です。綺麗です!
今後の上映会で販売します。
http://onagigawa.com/
公式サイトです。「撮影エピソード」などを随時アップしています。
エピソード、これからどんどん更新予定です。
記録を残すため、そして観た方に作品への理解を深めていただくのが目的ですが
(観ていない方が、観たくてたまらなくなったらいいなというのも(笑)
最終的には、その目的以上の「何か」も伝えられることを目指して書き進めます。
トップページの更新情報で確認できます。ぜひご覧ください。

深川福々創刊50号記念展が開催されました(3月11日)

久々の投稿となります。
2月中旬からいろいろなことに追われていました。3ヶ月ってあっという間ですね。
3月11日に1日だけ、「深川福々 創刊50号記念展」が
江東区深川江戸資料館の一角で開催されました。
開催期間が数日あれば、こちらでも告知したと思いますが、
今回は商店街の出店イベントに合わせての企画だったため、1日限りの展示でした。
しかし、ご提案いただいた資料館のご厚意がありがたく、
展示されたすべてのバックナンバーの前で、ご来場者や地元の方と
楽しくこれまでを振り返る機会となりました。

「深川福々」は「深々福々」として、2009年春に
深川資料館通り商店街のギャラリーカフェ「深川いっぷく」で創刊されました。
当時「深川いっぷく」マネージャーだった白濱万亀さんが発行人で、
お店とつながりのあるライターさんらが執筆を担当してスタート。

創刊号です。
創刊された2009年春は、そら庵でカフェを始めたばかりで怒涛の毎日。
そんなとき、白濱さんが創刊号を持って初めてそら庵を訪れてくれたと記憶しています。
第5号からお手伝いを始め、東海亮樹がインタビュー記事を執筆。
やがて発行を引き継ぐお話をいただき、2011年夏の第12号から
新しい編集体制となり、私(東海明子)が発行人、東海亮樹が編集長となりました。

第4号、5号、12号です。
3・11のときは、深川いっぷくさんから引き継ぎを行っていた頃。
あの揺れの途中で外に飛び出し、ご近所の方と呆然としながら立ちすくんでいたとき、
そら庵の建物が左右にしなっているのを目にし、壊れたら全部終わるんだろうなあと
思ったことを思い出しました。でもそうはならず、店を続け、
深川福々を隔月で出し続けることとなりました。

創刊以来、広告収入のみによるボランティア運営でしたが
昨年までの6年間、律儀に?隔月発行を続けてきました。
発行部数は12号の頃は7000部でしたが、現在はほぼ8000部に。
まちの皆様にさまざまなご協力をいただき、
折々に新しい方にスタッフに加わっていただき、
そして毎号手にとって、読んでくださる沢山の方がいたおかげで
ここまで続けられました。
写真の右上が昨年5月に発行した第47号で、
東海亮樹が編集長として最後に目を通した号となりました。

(展示会場で、第50号などを配付していました。)
誌面のスペースが限られていたことも大きいのですが、東海は編集長として
インタビューなどの取材執筆と、編集と制作に徹し、
「東海色」のあるエッセイなどは書かず、あくまで黒子でした。
先日、勤務先の方とミニ文集を制作したとき、
何か深川福々の文章をという話も出ましたが、
振り返ってみて、黒子記事ばかりだったと改めて気付きました。


私は取材やインタビューの場で一緒だったことも多く、
自ずと学ばせてもらいました。そのことに感謝しています。
信頼できる編集者がいなくなったことは大きいのですが、
今スタッフをしてくれている方もとても優秀なので続ける決断ができました。
ただ、勝手ながら今後はきっちり隔月刊ではなく、
季節によって3ヶ月間隔を空ける「年5回」の発行といたしました。

そういうわけで、前回12月の発行から3ヶ月空けて
3月17日に第51号(春号)を発行しました。
後日、記事の画像もアップします。


私自身ですが、人に会うことの面白さや
発見や学びの楽しみ、好評をいただいたときの喜びで、
今日まで続けることができました。
内容の変更で2013年頃から私も時々記事を担当するようになり(現在は毎号)
記事を書く機会がなかったら、
中途半端な知識や理解のままだっただろうと思うことが度々ありました。
「勉強」「成長」の場であったと思います。
そしてそら庵と同じく、この仕事を通じてできた人とのつながりは
自分の人生を豊かにしてくれたと感じています。


とはいえ、読むに値するものを定期的に作るという仕事を、
現在の体制で今後どこまで続けられるのだろうという気持ちも
正直言ってあります。
でも50号記念展という素敵なご褒美も頂いたので、
東海スピリットを引き継ぎながら、もうしばらく頑張ろうと思っています。

「東海亮樹2DAYS」ご報告3 東海が2008年に書き綴ったこと

2017年11月3日と4日に開催された東海亮樹を偲ぶ会の初日、
東海のさまざまな文章を朗読していただきました。
そのうち2008年のそら庵プレオープン前後に
SNSmixiに投稿したものをご紹介します。
東海と私は、2008年の3月末に初めて、そら庵となる建物を訪れました。
このときは「お店」や「カフェ」をやることはまったくと言っていいほど考えておらず
知人から建物の話を聞いて面白半分に見学に行っただけでした。
最初と2番目の投稿は偲ぶ会での朗読テキストには含めていませんでしたが
ここに掲載します。全部で6つです。
お金の話などw、内容の一部を省略、または改変しています。ご了承ください。
当時撮影した、最古の外観写真です(笑)

「必見!アトリエ付き住宅貸します」 2008年4月12日
不動産情報です。
こーーーーーーーんな物件、あなた(そう、あなたです!)しか借りません。
どんな賃貸住宅雑誌を探しても、
こーーーーーーーーんな物件、ありません。
なんか、催眠商法みたいですが。
だいじょうぶ、ですよ。


実は知人が江東区隅田川沿いに元印刷工場兼住居の一軒屋を購入しまして、
しばらくは建てかえて住む予定はないので、アトリエ付き住居として、
とくにアート系の方がいたら、何年かは貸したいという募集をしています。
場所は、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅を出発した芭蕉庵跡の隣。
住所では、江東区常盤1−1−1(ぞろ目好きにはたまらない)。
都営新宿線森下駅徒歩5分、隅田川のリバービューが一望できる絶好のロケーションです。
2階建て各約50平米で、1階は元工場、2階は6畳、6畳、3畳、3畳の間取りです。
広い。 しかし、
ぼろいです。
現状復帰必要なし。どういじろうが、
壁に絵を描こうが、壁新聞を張ろうが、壁抜けしようが、壁にぶつかろうが、
こうしようが、ああしようが、まったくOK。
どうですか、お客さん。
ご興味がございましたら、いつでも、ご相談ください。見学随時可。 (了)

自分たちで借りる気がなかったことがわかると思います(笑)
初めて内見したときの建物内部です。
次にご紹介するのはそれから2ヶ月後の投稿。
当時、同僚の自殺、友人の急死、そして秋葉原の無差別殺人事件があり、
複雑な思いを抱えている中で、そら庵をやってみたいという気持ちが
ふつふつと湧いてきた、と書いています。彼がそう考えていたことについて
私自身はすっかり忘れていて、今回の発掘で気づくこととなりました。


「そら庵計画・共犯者募集」2008年6月16日
人さまに言うのもなんですが、塞ぎ込むことばかりの日々です。
個人的にも、世の中から受ける心的すり傷(外傷ほどではないけれど…)。


キーワード的思考はもうやめたい。言葉は有機的にかつ身体的につながっていないと、まったく意味がない。
意味がない仕事をしていると考えるとつらいが、どうにか意味があることにしたいとは、しばらく考えない。
なにか思い付くまで、何もしない。何もしないことが一番つらいたちなのだが、
公的なことは何もしないと我慢することにした。


たとえば秋葉原の事件でもキーワードだけで語ってしまえば、意味が細るんです。
格差社会、非正規労働、アキバ、オタク、勝ち組・負け組
ケータイ、つながり、タガーナイフ、絶望、グローバル社会、などなど。
記事を書くということは、これをうまい塩梅で組み合わせるのが、うまい記事なのである。
それはそれでいい。それで、これまで飯を食ってきた。
しかし、腹の底からにじりだす言葉を失った。入り小細工のように技巧をこらした文章でも、
腹の底から出てきたものは、響くのだ。それができないと自覚したのなら、黙っていないといけない。


とはいえ、閉塞を嘆いていても前には進まない。前じゃなくても後ろでも斜め右上方でもかまわない。
偶然に降ってきた目の前のことから始めようと思い立った。
以前にも日記で募集したアトリエですが、この際、自分自身で「生かそう」と思っている。
芭蕉庵の隣だから、奥の細道に同伴した門下人の名前をとって「そら庵」とする。
名前は決まった。では、なにをするか?
とはいえ家賃がある。もうける気はまったくないが、というか、もうけないようにしたいのだが、
家賃分をとんとんにしたい。その枠組みでどうするか。
いまのところ思い付いた案を出しておく。


1階の印刷工場跡を「フリースペース」として開放したい。
個展をしたい人にはしてもらう。
音楽をやりたい人にはやってもらう。
詩を読んでもいい、朗読をしてもいい、
ある日、一日、借りた人間がやりたいものをやってくれればいい。
そうして、そこを使った人の横がつながっていってくれたらいい。
横には地域も巻き込みたい。その時はとんがってはいけない。
下町のじいさん、ばあさんにも喜ばれるゆるいねたもしなければいけない。
落語だって長唄だってかまわない。というか見たい。
もちろん、酒が飲める場所は作る。1日マスターみたいなかたちで、企画をたててやってもらってもいい。
私も「作文バー」をやる。なにがなんだか分からないだろうが、これは面白いのだ。
(注:少々省略)


「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」
せっかくだから芭蕉の言葉に従いましょう。精神的な旅人がゆるゆるとできる場所にしたい。
こんな企画ができるのではと思い付いた方や、2階に住んでもいいと思われる方、
よくわからないけれど賛同して知り合いにこんなことをしようとしているのがいると話してくれる方、
ぜひご連絡ください。(了)

5月から6月にかけて、近所にお住まいの方が
建物を借りてコレクションの展示会を開いていました。
ぼろい建物も、工夫次第でぼろさが気にならなくなることがわかりました。
そして6月末、借り手の有力?候補が現れたため、数日真剣に検討。
2階に住んでくれる人が現れたことにも背中を押され、
7月はじめ、ついに決断し、賃貸契約を結ぶことになりました。


「そら庵とは何か?」2008年7月7日
「そら庵」もついに現実に始動させることになりました。
(注:ここでmixiに「そら庵」準備委員会コミュニティを立ち上げたご報告)
正直に言えば、不安でいっぱいです。


経済的な心配もありますが、やはり一番重要なのは、
「そら庵とは何か?」ということを、何度も問い直すことだと思っています。
そうしないと、単にギャラリー、カフェを経営するということになってしまうし、
ビジネスをするのならば、「そら庵」を選ぶということはないからです。


文化の発信…
と言うことはたやすいのですが、こういう言葉は曖昧模糊で、
ともすれば空疎になってしまいます。


人とのつながり…
という言葉も同じだと思います。


しかし、やはり「そら庵」をやるということは、文化を発信したいし、
人とつながりたいということは、まさにその通りなんです。
音楽を作ったり、絵を描いたり、文章を書いたり、舞台をつくったりという
表現に踏み出した人たちを、僕は心から尊敬しています。
そして、音楽を聴いたり、美術を愛したり、本を読んだり、舞台を見るという
受け手の人たちを、僕は心から尊敬しています。


そして、こんなことを考えています。
表現をする人たちと、表現を受け止める人たちが、ともに「自分として現れる」、
その瞬間に立ち会いたいということです。
「そら庵」はとても小さな場所です。そこに加わってくれる人たちもまだまだ数少ないです。
でも、「自分が自分として現れる」という
小さな奇跡が起こせる場になるのではないかという夢を抱いています。
「自分として現れる」ということはもってまわった言い方かもしれませんが、
何か美しいものに触れたとき、何か楽しいことに遭遇したとき、何かに驚いたとき、
考えに考えた末にアイデアがわいてきたとき。人にはそういう瞬間があると思います。
それが「自分として現れる」ということではないかと、僕は考えています。


小さなことから始めましょう。大きなことにうそがあり、ペテンがあります。
小さな場所で小さな奇跡がつながっていけば、とても魅力的な場所になるのではないでしょうか?
と、僕はついレトリックを書いてしまうので、大げさでごめんなさい。
「そら庵」はもっとカジュアルで、寛容で、ユーモアのある場所にしたいです。
みなさん、かるーい気持ちでコミュに名前を置いていただいて、知恵を貸してくださいね。


僕にはできないことがいっぱいあるんですよ〜。
・空間デザインのセンスはまったく自信がありません
・字が下手ですw
・ベースギターが下手です(爆
・世界文学全集を読破していませんw
・10代のときにビートルズを聞いたことがありません^^;)
・人が目の前でけんかをしていると、すごく落ち込むんですシクシク


「そら庵」に関係あることもないことも含めて羅列してしまいました。すいませんw。
すでに協力していただいている方々に深く感謝し、
これから参加していただける方にI want youです。(了)


続いて7月下旬の投稿です。


「そうか文化祭だったのか」 2008年7月27日
駆け抜けた一週間だったなあと振り返ります。
そら庵の準備、夏休み前のばたばた原稿書き、その間にホット太極拳あり、送別会ほか酒飲みは続き…と。
一瞬、倒れかけたときもありましたが、でもいまは不思議と疲れていないんですね。


なんだろう、この感じ?
「そら庵」のコミュでも書きましたが、現在かなり「文化祭ハイ」になっています(笑)
そら庵でおまえは何をやりたいんだ? 意味がわかんね〜よと指摘されたこともありましたが、
そういう点では結構、自分に確信が芽生えてきました。


文化祭なんです。
ふと高校時代の文化祭を思い出しました。
ぼくは演劇同好会をやっていて、えらそうに作・演出なんかをしていました。
寺山修司とかベケットとかを生半可にかじって、
いま考えると顔から火がでる不条理劇のようなことをやっていたのですが、
そら庵をはじめて、さらに顔から火が出る思い出は…私は裏方作業はナマケモノでした。


高校の地理室を劇場にするために、仲間は部屋中に黒い模造紙を徹夜で貼ってくれました。
友達はこころよく大駱駝館のように全身を白塗りにしてくれました。
でも演出家の私はナマケモノでした。よく怒られました。
でも怒った彼らは楽しそうでした。じつは文化祭は手を使って作るから楽しいんですね。
私はその楽しみをやりそこねていました。
もう四半世紀も前の出来事ですから、反動というわけではないのですが、
そら庵を手作りしているのは、とても楽しいのです。


素人、道楽、意味がねー、と言われても、終わらない日常を突破して、
終わらない文化祭をやりたい、なんて考えています。
でも高校生じゃないんだから、一定の仕掛けは必要だとはもちろん思っています。
いま頭のなかにある空想、妄想をどう実現するか。そう考えるとわくわくします。


そして、一人の妄想だけではなく、集合妄想が現実となったときに、
何が起こるかというと…これは書きません。
歴史にさんざん使われる漢字2文字のことを実現したいのではなくて、
駆け抜けていくうちに気が付いたらそうなっていたということを夢想するからです。


てなことを思いつつ、今日は菓子折りをもって、
ご近所のみなさんに挨拶回りに言ってきます。 (了)

(7月19日に届いたカウンター。5000円でした。)
上の投稿を行ったのとほぼ同じ頃、当時ご協力いただいていた方々と相談して、
8月31日に「庵びらき」のイベントを行うことになりました。
まだシンクも、電気以外の熱源もなく、怒涛すぎましたが、
何もなくても音楽やパフォーマンスはできるだろうということで、
その日に向けてひたすら突進。結果は最高の一日となりました。


「嵐が終わった嵐の日」2008年9月22日
思い起こせば、激しい夏でした。

そら庵の立ち上げ、1年4か月ぶりのライブ(注:当時アマチュアバンドをやっていました)
仕事でも本業分野へのカムバックということが一緒にやってきて、
盆と正月と花祭りが一緒に来たような感じでした。
いろいろ反省する点も多いのですが、やったやったよかったよかったと、とりあえず総括をして、
四〇代(こだわってませんが)のスタートを切りました。


久しぶりに公私ともに予定がない土日で、そら庵を掃除して、ビールを飲んで、のんびりと過ごしました。
そら庵のほうは軌道にのったとはまったく言えない状況で、打ち上げをしてまだ大気圏を出ていませんが、
個別にはたくさんの出会いに支えられて、次の展開の芽が出てきたような感じはしています。
もちろん、成層圏を抜けて周回軌道にのせないことには、
あっという間に燃え尽きてしまう危うさがあるので、
熱くても熱くても空気摩擦にたえながら上がっていくしかありませんね。


最近、松本昌次さんの「わたしの戦後出版史」という本に感銘を受けました。
松本さんは、未来社という硬派の出版社で、売れなくても必死に戦後思想の本をつくり続けた編集者です。
書き手にとことんほれ込むというタイプの編集者で、その人に全生活をささげながらも、
夜は木下順二さんのもとで演劇運動にも関わっていました。
「なんで、そんな時間があったのか今でも分からない」という情熱がうらやましいと思いました。


その本のなかで、松本さんが、「今の時代は若い人に編集者になることは勧めない。
もし地方の人だったら故郷に帰って文化運動をした方がいい」と話していたのが印象的でした。
そういう時代なんだな…と思いました。難解であったり、風変わりであったり、反常識的であったり、
それでいて文化というもので何かを訴えたい、できれば人のためになるようなことをしたいと思うのであれば、
「マス」であることは自分をスポイルしていくことなのかもしれません。


待望するほど若くはないのですが、日本がこれだけ制度疲労してしまって、
多くの人が心を壊して、怒りとか憎しみが充満していても、それがまとまりにならないという時は、
歴史をみれば戦争や革命が起きる気配なのです。しかし、21世紀はいままでにない世界になってしまっていて、
ものごとはそう単純ではありません。
生きようとすればするほど「逝き過ぎてしまう」というような状況かもしれません。


とにかく小さなところから始めなくてはいけないな、と感じています。
小さなことからこつこつとではなくて、「小さい」ことそのものに意味があるように感じます。
出会った他者の一人一人の話に耳を傾けて、一人一人を大事にして、少しずつ同心円を広げて、
なんとか一緒に「まともさ」を見つけていくしかないのかもしれません。

松本昌次さんの言っていることが正しいのかどうかは分かりませんが、
そら庵をやっていく上で、とても励まされました。
「運動」と大上段にかまえる気はまったくありませんし、
空疎な大上段なら世間にいくらでもありますよね?


やはり、魯迅の言葉に戻ってしまうのです。
「希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。
これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、
歩く人が多くなると初めて道が出来る」(「故郷」より)


そして、やはり魯迅のように、戦闘的であって寛容、
狂いながら常識的というスタンスをとり続けたいものです。
以上、嵐だった日のつぶやきでした。 (了)


最後に2008年の暮れに書かれたものを。


「2008年の1」 2008年12月26日
思えば、である。


2007年の12月に、私は、あれこれあって、
寧波の日本語学校の教師になる予定だった。
それが、08年の12月にこうしていることって、
自分でもとても奇妙である。


ことしもあと5日。
自分語りもいいですよね。と連載。
今日は、すでにべろんべろんなので…


「2008年の2」 12月27日
自分の日記を読み返してみたら、
4月ごろには、まだそら庵物件を誰かに斡旋しようとしていた事実に驚愕。
私はまだ当事者ではなかったのか……4月。


「2008年の3」 12月28日
5月は大学の恩師が亡くなり、友人が自殺をした…つらいころだよ…まったく…


「2008年の4」 12月28日
それで、6月にそら庵をやることを決めた。
人生に起きることはばらばらのようでいて、じつは流れがあるのではと、思う。
(了)


今回ご紹介する東海の文章は以上です。
ちなみに同じ頃、私がmixiに投稿した駄文は閉店後に一度まとめました。
恥ずかしながら、ご興味がありましたら。
(私にも、私なりの「そら庵をやりたい」動機がありましたが、それについては
書いていません。墓場まで持っていくかもしれませんww)
http://d.hatena.ne.jp/sora-an/20161004/1475558132
翌年2009年の春、そら庵はカフェとしてもオープンし、出会う人の数が飛躍的に増えて
想像を超える出来事が続き、ますます怒涛の展開となっていきました。
特に飲食店を切り盛りすることになった私にとって一大チャレンジとなりました。
2階も新たな方が運営するギャラリーとして、人の集まる場所に変身しました。
しかし、東海が2008年に繰り返し語っていたことは、その後もずっと
そら庵の指針となりました。


2008年8月、ペンキ塗りにいそしんでいた東海です。
ちょっと手前味噌ですが、偲ぶ会で朗読を行った方、朗読を聞いた方の感想が
とても素敵だったので、転載いたします。みなさん、ありがとうございました。


故人の言葉を身体に通す、という行為。
人並み以上に多面的だった東海さんを、各人が見ていた側面を垣間見る思い。
そら庵はもうなくなったけれども、東海さんという人を媒体として、
より続いていく気がする。「そら庵メディア」ともいえるものかも。
(ヒフミさん)


『そら庵』を興した哲学を、彼の文章を朗読してみて初めて知る。
その哲学に、知らぬ間に映画作りを通じて巻き込まれていた自分を知る。
ぞくぞくと人が集まる状況に愛されていた彼を知る。
今回、急逝後はじめて『小名木川物語』を観て、奥様の明子さんの隣に彼がいない違和感。
やっと、不在を感じる。
(佐藤美佐子さん)


沢山書かれた記事、書評、つぶやきから抜き出された言葉を次々朗読するどの方も、
仕草や声を思い出し読んでいるようでした。
ジャンベやギターの音の中、壁のスライドショーの姿と合わさり、
ご本人の声と重なって聴こえるような錯覚に。
「本は栄養、映画は滋養、まちは涵養」が座右の銘とネットで知りました。
亮樹さん、ありがとうございました。
(ひのりずもさん)


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「東海亮樹2DAYS」ご報告2(2017年11月3日&4日開催)

11月4日、「東海亮樹2DAYS」2日目は
チャーリー高橋さんとつながりのあるミュージシャンの皆さんに加え、
かつてそら庵でイベントを開催された方々にも
出演者として何人かお越しいただきました。
そして後半で「小名木川物語」の非公開上映を行いました。
まず、高橋さんのブログ報告を転載いたします。
http://blog.livedoor.jp/stakahashi2/archives/2017-11-05.html

11/4はその二日目で菜の花楽団の演奏のほか、Licoさんが歌って、月琴のチャーリーさんの演奏、ごしきゆうごさんの津軽三味線、大川端語りの会の武さん、三上敏視さんの全国の神楽を紹介する神楽ジョッキー(観客ががんがん歌うのがおもしろかった、三上さん本人も歌った)など。そのあとに映画「小名木川物語」の上映で、私は二回目なんだけど、人々や季節のうつろいやこの地の風物を細やかに美しく描いていると同時に、東海さんが亡くなってみると、まるであらかじめ自らの死を予感していたかのような=空襲や震災で亡くなった膨大な人々をも含んだレクイエムだったようにも見えて感慨深い。上映後、菜の花楽団一人ひとりが、オムマニ、ジャワのうた、そして最後に映画の音楽担当でもある岡野さんが「小名木川物語」のテーマをピアノ演奏して終わった。二日とも終わってから広隆菜館でウチアゲをしていろいろ話して楽しかった。一周忌でもなにかできたらいいなと思っている。

この日は音楽の出演者として
菜の花楽団(チャーリー高橋、さとうじゅんこ、岡野勇仁)
シンガーのLicoさん、津軽三味線奏者の五錦雄互さん、
清楽月琴ワークショップのCHARLIEさん、水島八重さん。
また30数回開催された「大川端語りの会」の朗読家、武順子さんには
東海作の小話を読んでいただき、
楽家、神楽研究家の三上敏視さんには、そら庵でも何度か開催した
「神楽ビデオジョッキー」(貴重な映像と解説)を再現していただきました。
(以下、皆さん全員の写真がなくて申し訳ありません!)



久しぶりに皆さんの芸やお話を堪能し、ここまでで既に盛り沢山でしたが、この後に映画を上映。
映画のスタッフや関係者も何人か交えて、亡くなってから初めての上映と鑑賞になりました。
上映終了後、チャーリーさんには映画本編に演奏シーンがある「オムマニ」を、
さとうさんにはジャワに伝わるという、死者の功績を称える歌を、
岡野さんには映画のメインテーマなどを演奏していただきました。
音楽での、美しい追悼のひとときでした。


映画のエンドロールから何度も緩んだ涙腺をいったん締めて、
最後に私がご挨拶して終了。
そして再び興隆菜館で打ち上げを行いました。
皆さんとのこれまでの思い出、そして
東海を偲び、このような素晴らしい時間を作っていただき感無量でした。

興隆菜館でのチャーリーさんと三上さん。昔なじみのお二人。
お二人のやりとりを再び間近で拝見できて感動しました。


葬儀のとき、映画の関係者が、まるで映画の続きのようだと言っていました。
ご覧いただいた方にはわかると思います。
小名木川物語」は、あちこちでお話しているように、
撮影開始当初はショートムービーを作るぐらいの意識でしかなく、
まだストーリーが存在せず、
深川出身の写真家で監督の大西みつぐさんが撮影したい風景を撮影することから始めました。
それと並行してキャストが少しずつ決まり、徐々にストーリーが作られていきました。
小名木川の灯籠流しのシーンは初期の撮影でしたが、
その後を決める重要な要素になったことは間違いありません。
岡野さんのメインテーマも、岡野さん自身が撮影現場で灯籠を眺めていたときに
曲調が浮かんだそうです。
主演の徳久ウィリアムさんがかもし出す「喪失感」が素晴らしかったことや、
東日本大震災のあった2011年以後の作品制作であること、
東京・深川から川とまちと人をテーマにした発信を考えたときに
物語における震災と東京大空襲の比重が高まっていきました。
脚本は最終的に東海亮樹と私(東海明子)、そして胡舟ヒフミさんとの共同作業で
もちろんそこには大西監督のお考えを反映しているので、
「レクイエム表現」も共同制作でした。ただ新聞記者、物書きとして
政治、社会、文学を大きなテーマとしてきた東海亮樹の思想やセンスが
さまざまな形で作品に表現されているのは確かです。
「死んだ者は生きている者の中にいる」という台詞は東海の案でした。
ある人の文章からインスピレーションを受けたと語っていました。
私はこの日久しぶりに観て、自分が担当した、死に関する想像力で作った台詞を
不思議な思いで、初めて聞くように聞きました。
余談ですが、東海自身は「映画はエロスとバイオレンス!」と
冗談半分によく言っていて、「小名木川物語」のような作品を作ることを
決してもともとは意図していませんでした。
それが精魂込めた最後の大仕事となるとは。
人生は、世の中は本当にわからないものです。
お通夜の日がちょうどその年の灯籠流しの日で、葬儀会場の少し先で
読経が行われ、灯籠が漂っていたなんて
出来過ぎではないかと思います。

映画より。徳久ウィリアムさん(大西みつぐ監督撮影)。
まだ「小名木川物語」を観ていない方へ。
作品における死や鎮魂のモチーフについて書きましたが
小名木川物語」はとても元気の出る映画です(笑)
影が濃ければ濃いほど光をいっそう強く感じられる、ということだと思っています。
日程は未定ですが、2018年も上映機会を作りますのでぜひ観てください!
公式サイト  http://onagigawa.com/


映画の話に大きく脱線しましたが、チャーリーさんはこの偲ぶ会の打ち合わせで
思想家、文筆家としての東海をアーカイブとして形に残していきたい、
そのためには出版がベストだが、すぐにはできないので、まずは朗読と映画と音楽ライヴから始める。
そして一周忌あたり?で今回のイベントを発展させたイベントを、というお考えを述べられました。
私としては、このような試みを自分一人で行うことは到底無理なので、
そのようにお考えいただいているだけでありがたい限りです。
皆さんお忙しいので、時期にはズレが出るかもしれませんが、
もっと多くの方に来ていただける機会を再び作れたら、とても嬉しいです。
2日間のイベントでお世話になったみなさま、足を運んでくださったみなさま、
本当にありがとうございました。
番外編の、ご報告3に続きます。

「東海亮樹2DAYS」ご報告1(2017年11月3日&4日開催)

11月3日、4日の2日間にわたり、音楽家・チャーリー高橋さんの企画で、
音楽と朗読などにより東海亮樹を偲ぶ会「東海亮樹2DAYS」が、
門前仲町のchaabeeで開催されました。

会場のスペースの都合で非公開イベントとし、
主にそら庵でお世話になった方々に出演者やお客さんとしてお集まりいただきました。
初日は音楽ライブのほか、東海がSNSに書きのこした文章を、
即興で音楽を付けて代わる代わる読んでいただきました。
後日、日を置かずにアップされた高橋さんのブログでのご報告を
まず転載させていただきます。
http://blog.livedoor.jp/stakahashi2/archives/2017-11-05.html

11/3は7月に亡くなった旧そら庵の東海亮樹さんを追悼する会「東海亮樹2dAYS」の一日目を門前仲町のチャービーにて。遺影が置かれ、生前のいろいろな写真が壁面に映写される。その前でシュトカプーが数曲演奏したほか、2525稼業、Yukkiyさん(赤ちゃんを連れてきてくれた!)、あがささん、まりこさんが歌った。そして、渡さん、服部さん、加藤さんなどそら庵にかかわった詩人たち、その他の方々が、東海さん(共同通信の記者だった)が残したいろんな文章をそれぞれ朗読するのにミュージシャンが一人づつ音をつけてみる試みが思いのほかスリリングで、東海さんのいろいろな側面に光が当てることとなった。

この日の音楽の出演者は
シュトカプー(チャーリー高橋、赤羽美希、近藤治夫、岩原大輔)
2525稼業(平山亜佐子、広川沙羅)
YUKKIY、あがさ、まりこ、小日山拓
の皆さん。チャーリーさんとバンド活動や共演などつながりのある方々。


そして朗読者としてご参加いただいたのは、
2008年8月のプレオープンイベント「そら庵開き」の
出演者だった詩人の渡ひろこさん、服部剛さん、かとうゆかさん、
そして「小名木川物語」助演の俳優、佐藤美佐子さん、
また、このイベントの共同企画者であるchaabeeの藤田さん、
胡舟ヒフミさん、前田やすさんと私も読みました。


チャーリーさんはお通夜の席で、追悼イベントをやりましょうと
おっしゃってくださいました。やがて実施に向けてのご相談があり、
(しかも2日間)有言実行してくださることに感謝感激。
打ち合わせの席で、東海について語る
チャーリーさんのお言葉にまた感激。
さらに、このブログやまだ残っている公式HPを事前に見て、
そら庵でイベントを開催した方々をリストアップし、
これまでつながりがなかった人達ともこの機会に交流できれば
とご提案いただきました。
この会のために真剣に取り組んでくださっていることに頭が下がりました。
そして長時間のイベントをご承諾いただいた
chaabeeの藤田さんご夫妻あっての実現でした。



東海のテキストを読むというのもチャーリーさんの案でした。
硬軟取り混ぜあちこちにたくさんの文章を書き残した人なので、
やるしかない、是非!ということに。
テキストの選定は私とやすさんの作業となりました。
このような場で朗読に、そして耳で聞くにふさわしいものとなると
SNSへの投稿だろうということに。
主に友人知人だけが閲覧できる限定投稿で
2005年〜10年頃まではmixiに、それ以降はfacebook
バカ話から社会評論までさまざまなことを投稿していました。
とはいえ、かなり分量があるため、目を通すだけでも大変なので
ひっかかったもの、ご紹介したいものをピックアップして
大まかな構成だけ考えました。


特にmixi時代のものは、内容も表現も忘れかけていたので、
私自身、そんなことを書いていたかと新鮮に読み返しました。
そら庵オープン前後に書いたものは、元気だったときの本人らしさが
とてもよく表れていたので、このご報告の3に掲載します。


当日は暖かい秋日和。のんびりした心地よさに包まれてスタート。
休み休み、飲み食いしながらの4時間は、長すぎず短すぎず、完璧でした(笑)
名曲と素晴らしい演奏と歌声をゆったり楽しみ、そして
チャーリーさんが「スリリング」と書いていらっしゃったように
朗読の時間は即興での演奏とあいまって、死者を蘇らせる試みのようでもあり、
遺言を聞き漏らさないように耳をそばだてるようでもあり、
ピンと張り詰めた空気になりました。
でも重くなりすぎないよう、バカ話系もありました(ウケてよかったw)
東海を再発見していただける時間となったようで、良かったです。



最後にモンゴル民謡にチャーリーさんの素晴らしい詞がついた
「山越え阿弥陀」で終了。
(何度も聴いていたこの名曲を、東海のことを思って聴く日が来るとは
本当に思いもよらないことでした。)

その後は、そら庵時代から何回行ったかわからない興隆菜館へ。
チャーリーさんのライブ終演後はほぼ毎回行っていて
大人数で押しかけても何のそのの頼もしいお店。
私と東海は顔なじみだったので、この日ようやくママさんに
お知らせとご挨拶を。どれほど時間が経っても、お知らせは
気が重くて悲しいので、皆さんに良い機会を作っていただきました。
良く知ったお店とメニューで楽しい時間が続きました。
2日目のご報告は次に(はい、まだ2日目が!)
写真はヒフミさんと黒澤さんからお借りしました。ありがとうございました!


最後に、2017年3月15日に東海がfacebookに投稿した文章を掲載します。
錦糸町に実在するお店の女将さんのことを書いています。
(文中に出てくる「70年」は時間的におかしいんじゃないかと思うのですが
そのまま掲載します(笑)
☆☆☆


今日はジェームス・ジョイスのような感じで。

錦糸町という町は天使と悪魔が同時に舞い降りて、お互いの使命を忘れて路地でホッピーを飲んでいるようなところだ。天使がもうよそで飲んではダメだよというと、悪魔が現れて飲んでいけという。悪魔は天使を何人か雇っていて、あたかもそこは天国のように語る。私はそこが天国ではないことも知っているし、さりとて地獄ともいえるところではないので、いつものようにまた今度と言ってやりすごしていく。借金が終わったら、あなたの紹介する店に勤めるよとは言うけれども悪魔に雇われた天使の嘘は嘘として戯れないといけない。
寿司を食べて帰ろうとしたら、この町でもっとも古い居酒屋の女将夫婦とばったり出会う。そろそろと聞いてみると夫婦は岩手の一関の生まれで、夫が満州に開拓に行くからといって見合いで婚約を決めたという。妻は満州には行かず、未来の夫が帰って来るのをまっていたけれども、しばらくは行方知らず。数年してひょっこりと婚約者が帰ってきた。さりとて一関には仕事はなく東京の上野からほど近い錦糸町闇市に空いている店があり、二人でもつ焼き屋を開いた。気がつけば70年がたって、それでも二人は変わらず一緒に居る。子どもはいないから跡継ぎはないけれど、このあばら家の店も自分たちが死んでしまえば朽ちていくとこも仕方がないとは思う。お客さんたちがこの店を愛してくれたことはありがたいと思う。あれから随分月日がたったけれど、店が終わったあとに、すしざんまいだけれどもトロを食べているのはほっとするのよ、と言う。80歳の天使はそう言って、トロの寿司をぺろりを食べる。
外に出ればこざかしい悪魔はたくさんいて、そこをすり抜けていくのは黄泉の国めぐりのような不安と楽しみがある。錦糸町を愛してやまない理由はそんなところにあるのだと思う。

「かわら版 深川福々」第50号です(12月16日発行)

先月、12月16日に「かわら版 深川福々」第50号を発行しました。
すべての記事をこちらにもアップしました。
かわら版は、大江戸線清澄白河駅改札内、深川江戸資料館など
約50ヶ所の施設や店舗に配付・設置していますので、
深川にお越しの際はぜひお持ち帰りください〜。





最新号の記事「ふかぷくEYE」に書きましたが、
「深川福々」は2009年に
「深川いっぷく」初代店主・白濱さん&有志の方々により創刊され、
私や東海亮樹(そら庵)は5号あたりからお手伝いするようになり、
2011年夏に編集発行を引き継ぎました。


この6年余り、内容、構成は少しずつ変わりました。
当初は東海亮樹のインタビュー記事以外にスタッフが取材や執筆を行う
欄はなく、主に編集、制作、校正、配付が仕事でした。
だから、そら庵をやりながらでも何とか隔月で発行を続けられたと
今では思います。
2013年頃からスタッフ担当のコーナーが増えて、
その後、さらに増え、今ではそちらがほとんどとなりました。
偶然2013年以降に清澄白河が「コーヒーのまち」となり、
これまでこの地域に無いジャンルの
「オシャレな」個人店が続々と開店したので、
その変化を追うのも大きな仕事になりました。
この私も取材して記事を書くなんて、引き継いだ頃には
想像できなかったです〜。


おかげさまで発行部数も増えました。
広告収入のみのボランティア運営ですが、
そのような変化や反応、折々にいただく感想が励みとなってきました。
運営方式を変えられないかとたびたび検討したのですが、
結局ここまでは変えられずに来ました。


昨夏以降はギリギリの人数での制作となり、
配達も自分たちで行っているので、なかなか大変ではあるのですが、
発行できる間は全力で発行を続けていきたいと思います。
短時間や、ほんの少しのお手伝いでもありがたいので
スタッフをやってみたいという方、随時募集中です!
(ノルマなどはまったくありません(笑)
メールをお送りください。
fukagawa.pukupuku@gmail,com

2018年となりました

2018年の始まりは青空が広がりました。
1月3日は友達と15年ぶりに会って、中3の初めまでいた学校付近をぶらぶらしてから
蒲田へ。

子どもが大好きなタイヤ公園は昔と変わらなかったけれど、新作が。
ゴジラ通過のまちになりましたのでw)。


ずっと地元に住んでいる友達に知らせがないところを見ると、
同窓会は公式に開くのが、たぶん、ほぼ無理な学校で、
思い出深い先生も早世されたので、
同級生の消息がほとんどわからないのがちょっと残念。
でも底の方に沈んでいた記憶を引っ張り出すのはやっぱり楽しいですね。
そういうわけで、人生初期の場所でチャージしてきました。


本年もどうぞよろしくお願いいたします!