鶴岡真弓さん×畑中章宏さん「妖精と妖怪」を開催しました

美術文明史家でケルト文化研究の第一人者である鶴岡真弓さんと
『災害と妖怪 柳田国男と歩く日本の天変地異』を刊行されたばかりの著述家・編集者、
畑中章宏さんをお迎えして、ミニシンポジウム@そら庵vol.3「妖精と妖怪」を開催しました。

日曜日も厳しい暑さとなりましたが、大変多くの方にご来場いただき
長時間ご静聴いただきました。皆様ありがとうございました。
死生観をはじめとする素晴らしいお話の数々で、2時間があっという間に過ぎ、
終演が名残惜しいイベントとなりました。
受付しながらだったため、聞き逃した部分もあり、
メモ的でうまくまとまってはいませんがご報告します。

1.空間・時間の「境目」について〜死んでいることは生きていることでもある


古代ケルト人は「生か死かは分けられない」と考えた。
これは「勝つか負けるか」「黒か白か」といった価値観の対局にある。
「私たちは生きていながら死んでいる」「死んでいても生きている」という考え。
ケルトの伝説的な王、アーサー王は永遠の眠りにこそついたが、死んだわけではない。
つまり「眠ることと死ぬことは一緒」。


柳田国男の『遠野物語』に登場する河童などの妖怪にも通ずる。
単なるたとえ話ではない。あの世とこの世をつなぐ者として存在している。
柳田は、人は亡くなると魂が家や田んぼに帰ってくると考えた。
「ご先祖様は見ている」。これは儒教的な考えによるものではなく、
「死者は実在する」という霊魂観によるもの。


柳田国男に対応するアイルランドの作家はイエーツ。イエーツは「ケルトの薄明」で、
昼でも夜でもない境目の領域(トワイライトゾーン)について書いた。
「境目に立て」と言っている。空間や時間の境界。


妖精や妖怪は「豊かな無時間性の中に生きなさい。時間を区切ってはいけない」
と言っている。


2.欠落について
耳なし芳一」を書いた小泉八雲自身も片目の視力しかなかったが、
片目、一つ目は世界の謎を見抜く象徴、メタ妖怪。
昔の日本人は、身体の欠落について「ないのは欠陥じゃない」と考えていた。
「ある」ことと「ない」こと、両方を了解していた。


この世に「成就したもの」などない。
私たちは「何をしてきたか」「どんな成果を上げたか」という
「成ったもの」に注目するが(その代表はお金)
すべては「成りつつあるもの」なのである。


3.動物、妖怪と人間
古代人は、人間の方が欠落し、動物の方が完全体で力を持つ存在と考えた。
「自分たちは東から来た」というマジャール人は、馬は太陽の化身と考えた。
鹿、熊、オオカミなどの動物は、ユーラシアの東と西を横断して崇敬されている。
動物は「小さき者」ではなく、最大の魔力を持った存在なのである。


西洋人のアニミズムシャーマニズムはその他にも。
ワインボトルのコルクは、聖なる樫の木からできているので、これで栓をする。
また、樫を食べる猪が家畜化したイベリコ豚が珍重される。


現代人は「コロッケを食べる」「カレーを食べる」と自分が食べることばかり言うが、
自分が何者かに「食べられる」感覚というのを忘れている。
「河童に食べられる」ことは、自分が役に立つ、献げものになることでもある。
音楽もそう。人が「聴く」、人に「聴かせる」ことよりも、
まずは神々へ献げるもの。


「死者が、動物が私たちを見ている」という視点に立つ。

妖精や妖怪は私たちに近い、親しき存在であり、親しみのある雰囲気が好きなのだそうです。
川も目の前にあって、彼らにとってそら庵は居心地がいいとの鶴岡さんのお言葉、
とても嬉しかったです^^。芭蕉像のある展望公園は16時半で閉まってしまうので
いったん休憩して、みなさんに眺めを楽しんでいただきました。

終演後はお二人の著書の販売も行いました。
貴重なお話を長時間披瀝していただいた鶴岡さん、畑中さん、
そしてお世話になりました亜紀書房のみなさま、多摩美術大学の金子先生、
本当にありがとうございました。

18時53分。昼が終わり、もうすぐ夜になろうとするそら庵前でした。