被災地から帰った記者さんのお話です

そら庵's フレンドで新聞記者の「グッチさん」が、
1週間の被災地取材を終えて、今日そら庵にいらっしゃいました。
お話を聞かせていただいたので、その一部をご報告します。


地震発生の翌日、12日早朝に東京を出発しました。車で7時間かけて仙台に到着しました。途中で福島原発がひどいという情報が入りました。福島の真ん中にいて、見えない放射能の恐怖を感じました。
仙台の中心部は一部信号が止まっていて、閑散としていました。


13日に南相馬市の北部の相馬市に行ってきました。その途中、内陸3−4キロの道を走っていましたが、そこまで津波が襲っていて、住宅地であったところが流木にあふれ、車もひっくり返っていました。11日に見たテレビの映像と同じで、衝撃を受けました。


石巻にも取材に行きました。全てが破壊し尽くされていました。全壊にちかい半壊の町では、魚の匂いが漂っていました。消防隊員が遺体を探していて、隊員は「ここに遺体がたくさんあると思うが、泥をかぶって真っ黒になっているだろう」と言っていました。


半壊して危ない家にまだ住んでいる人たちがいました。買い物に行っていた奥さんが行方不明になっているおじいちゃんでした。「ひょっこり帰ってくれないかと思って・・・」と話していました。


仙台の大学内の避難所に行きました。救助された幼稚園の先生の話。「突然揺れが来て、津波が来たので幼稚園の2階の屋上に逃げた。みんなで鉄塔にしがみついていた。子供たちにがんばろうと励ました。励ましたけれど、子供たちが助けて、助けてと声をそろえて叫んでいた。がんばっている子供たちをみると、自分が泣いているわけにはいかないと思った。自衛隊の船に乗って初めて涙が出てきた」。先生もお父さんやお兄さんと連絡がつかない。子供たちは「お絵描きしていい」ときく。親の安否が分からない子供たちが11人のうち8人も。被災者の取材はつらかったです。


基本的に電話はまったくつながりませんでした。
津波がくるという話がありました。携帯には連絡はなし。ラジオで聞きました。高台に逃げました。さいわい誤報でしたが、誤報と分かるまで高台のグランドに退避していました。


仙台市若林区で、荒浜地区の避難所でおばあちゃんがシーズー犬といました。ボブという名前でした。津波がきたときに、おばあちゃんは犬もいるしと、すぐに逃げようとしませんでしたが、結局リュックサックに犬の缶詰だけもって逃げました。家は土台以外は全部流されたそうです。ボブは孫みたいなもんさあ、と言うおばあちゃん。「犬のことを孫って行ったけど、実は死んだ息子だと思って飼っていたの。次男が休暇で帰ってきたときに、茨城の工場に戻って、2日後に息子が心臓まひで突然死した。私にはボブしかの残っていない。これからの暮らしに不安がないといえばうそになるけれど」と言っておばあちゃんはボブを抱き締めました。


(グッチさんが仙台に勤務していた数年前)気仙沼や塩釜とか漁港によく行っていました。それが破壊されたことが悲しいです。これから被災者には悲しみがでてくると思います。長いスパンでこれからも取材をしたい。東北生活は7年。ぼくが愛した東北のまちがこんな姿になってしまい、古いアルバムは二度と帰ってきません。よく通っていた飲み屋さんも跡形もなくなりました。


電話系統がやられてしまい、避難所によって物資のばらつきがあります。「自分のところには来ていないのではないか」という不安をもらす人がいました。海外メディアは日本人が規律ただしいと言われていますが、酒屋からものが盗まれていたり、静かな略奪はありました。


被災者は心に深い傷を負っていると思います。それを考えるとせつなくなります。


ここまでです。お疲れのところお話していただきました。ありがとうございました。
この後グッチさんは、そら庵から徒歩5分の銭湯「常盤湯」へ。
仙台はガスが通っていないので(ひと月はかかるそうです)
1週間ぶりのお風呂でいらっしゃいました〜。でも被災地の方は…
避難所生活の方もそうでない方も、本当に大変ですね…

久々、隅田川テラスです。

ライトアップしていない萬年橋からの満月です。
冷却水が満ちてほしい!
長いような短いような、未曾有の一週間でしたね。


明日20日日曜日は通常営業します。お気軽にどうぞ〜。
明後日21日はお休みさせてください。よろしくお願いします!