『しのびよる破局』より(タイトル怖いけど名著です)

今日はお店を開けていましたが、
風だか地震だかわからないほど風が強くて落ち着かなかったのと、
たぶん湿度が10%台だったために脳が飛行機に乗っているように妙に冴えていたのと
何よりヒマだったので(笑)
そら庵に置いている、辺見庸さん著『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』を
読みました。NHKが2009年2月に放映した「作家・辺見庸 しのびよる破局のなかで」を
再構成、加筆修正したもので、番組は当時観ていましたが、今日改めて手に取り、
途中でどうせなら「写経」しようと思い立ちました。
以下に抜き書きしています。長ーーーいので、ご興味がありましたら。
2008年の秋葉原事件リーマン・ショックなどを受けて語られています。


その前にこれだけ。
辺見さんとはまったく面識がありませんが、
実は「知り合いの知り合いの知り合い」です。偶然は重なるもので、
今日その写経をしていたとき、辺見さんの故郷である宮城県石巻市の町が
「全滅」したとご本人がおっしゃっていたことを知りました…


私は父方が宮城県出身ですが、仙台市などに住む親戚は無事でした。
また、もう20年ほど前になりますが、気仙沼から岩手県田老町まで
三陸海岸沿いを電車で乗り継ぐ旅をしました。
気仙沼で食べた1500円の上寿司は、未だに私の寿司ランキングNo1です。
降りずに通過しただけですが、釜石の鉄工所跡や大船渡の漁港、
明治の三陸津波で壊滅した田老の巨大な防波堤など、
忘れられない風景です。たった一度しか行っていないけれど
訛りになじみがあり、縁があった場所が被災するのは普通以上に心が痛みます。
また必ず行きたいです。余談が長くなりました〜。


『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』より


いま、ぼくはカミュが1947年に書いた小説『ペスト』をおもいだします。『ペスト
』はアルジェリアのオランという港町で起きたペストをめぐって書かれている。ペスト
に直面した人びとがどのようなふるまいをするのか、どのような葛藤をするのか、ペス
トにたいしていかに敏感であったか、マスコミはどのように動いたのか、宗教者はどの
ように考えたのか、ということをカミュは書いた。


明らかにカミュは地域的に限定された病理としてのペストを書きたかったのではなく、
もっと普遍的な悪について書きたかったのだとおもいます。オラン独特の悪ではなく、
全世界的な悪としてのペスト。つまり、「絶対悪」ということを想定していたとおもわ
れるのです。


カミュのペストは非常に示唆的です。あの小説の末尾には「ペスト菌は決して死ぬこと
も消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存す
ることができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古(ほご)のなかに、しんぼう強
く待ち続けていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペ
ストが再びその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける
日が来るであろう」と書いてある。
つまり、医学的な問題のなかにも同時に人間的な自省が必要なのだといっている。


経済だけではなく、むしろ経済の基を支えているいろいろな人間の動機というのでしょ
うか、生きていく動機のようなものが千々に乱れている。というよりも、変調をきたし
ている。(中略)価値観というのは人間の内面の問題ですから、いま、その内面の崩壊
と、外部の世界の崩壊が、同時的に進行しているのではないかとおもうのです。
くりかえし自分に、あるいは他者にも問われなければならない。人間とはいったいなに
か。人間とはいったいどうあるべきなのか。そういう初歩の、本当に原始的なスタート
地点の問いまで立ちもどらなければならない。


経済がまた繁栄を取りもどせばすべてが回復するという問題なのか。ちょっと待ってく
れといわざるをえない。(中略)いってみれば、破局のその真相、実相を突きつめてい
くことが大事なのではないかとおもいます。
このことに関連し、資本主義とはなんであるかぼくは自問します。端的にいって、それ
は<人びとを病むべく導きながら、健やかにと命じる>システムです。(中略)資本主
義はいいかえれば、人間生体を狂うべく導いておいて”狂者”を(正気を装った狂者が
)排除するシステムです。しかし、生体はそれに慣れ、最後的に耐えることができるの
か・・・


とくに1980年代以降、経済発達国ではたいていどの国でも労働時間が増加していく。労
働がどんどんどんどん過酷なものになる。それから競争主義、業績主義が主流になって
いく。鬱が蔓延する。自殺が増える。さらに不平等が拡大していく。そういう経過をた
どり、あげくに現在の大失業時代がきたのです。資本主義の歴史はじつは精神病の生成
史に重大な関連があります。資本主義はとりもなおさず、人間生体を強制的に変えてい
るともいえます。
これはなんとしてもくりかえし考えなければいけないのですが、諸権利、生活の快適さ
、教育、災害が起きたときに安全なところに住めるかどうかということもふくめた不平
等、あるいは雲泥の差ほどの収入格差が当たり前で、これも能力と自己責任なのだとい
う考えが常識化するなかで、実際は、人間の内面が次第に変わってきたのではないかと
おもいます。


でも、現状をひっくり返して、もっと人間的な価値を軸にして考えていこうという風潮
は、いわゆる社会主義の失敗のなかで、すっかり退潮してしまいました。そうして資本
万能、市場万能のような世の中が長くつづいてきた。そういうことのしわ寄せが、いま
一気にきているとすれば、それはたんに経済の問題だけではない。
リア充とかプレカリアートということばに象徴される新たな人間像は、世界規模のひそ
やかな人格崩壊に通じているのかもしれない。経済が回復すれば、人格も回復するとい
うことではありません。ぼくは逆ではないかとすら感じます。人間の本当の価値を、モ
ノの価値、貨幣の価値、商品の価値ということと関連づけて、逆立ちしている世界をな
おすにはどうしたらいいのかと考えることは、けっして無駄ではないとおもうのです。
いまこそ、そのチャンスではないでしょうか。


ペストが進行して死屍累々になっても、町ではオペラをやったりして、
日常はけっこう当たり前に営まれている。日常というもののしぶとさというか、大きな
災厄が起きているのだけれども、それにさえ人間は慣れていく。慣れ。(中略)『ペス
ト』でいまの時代をなぞらえるのは無理があるといわれるかもしれませんし、たしかに
そうではありますが、ぼくはあえてそれをしたい。『ペスト』のなかで慄然とせざるを
えないのは、これから悪いことが起きるというのはじつはまちがいであって、いままさ
に起きているのだ、しかしそれが見えないのだということです。


いまわれわれが立っている精神的な足場には、「無意識の荒(すさ)み」があるとおもう。ぼく
は、その無意識の荒みというものを、もっと摘出して見ておきたいのです。(中略)か
つてこの国ではある首相により「美しい国」とか「美しい星」とかいうようなことがい
われましたが、その「美しい」という形容詞をそのまま受け入れた人間は少なかったし
、あるいは、だれもいなかったかもしれない。にもかかわらず、テレビCMのような嘘を
、それと知って許すのです。それを荒みだとおもうのです。ことばが表意しないという
か、ことばが表意するものがかつてとまったくちがっている。「エコ」や「〜にやさし
い」ということばもそうですが、じつはモノを売るとか別のインテンションがある。(
中略)そのことを、じつはみんな知っている。そして、それを知ったうえで人間関係を
営んでいる。


いま格差というけれども、もともと本当に平等があったのか。じつはなかったとおもう
のです。ベーシックな差別というのは非常に古くからあった。いま必要なことは、繁栄
を取りもどすことではなく、新しくなにかをつくることなのです。それはありもしなか
った平等をいうことではない。働くとはなにか。平等とはなにか。あるいはさっきいっ
たように、貪欲というのはどこまで許されるのか。そういうことをモラルの根源におい
て考えてみるということが、ぼくはあっていいとおもうのです。そのなかで、個々の人
間が無意識に薄いクモの巣のように体内に張ってきた荒みをまず発見することに、自分
の課題として興味があります。


ぼくは賛成もし、惹かれもし、動揺もし、それと同時につまらないともおもうことばが『
ペスト』にはでてくるのです。主人公といってもいい医者のリウーという人物が、ある
ときいいます。「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」と。これって、
あくびがでるくらい退屈な心理だとおもうのです。その誠実さというものは、退屈だし
、これ以上ないほど凡庸でもある。けれども、真理はしばしばひどく退屈です。


非常に堅い仕事の、銀行だか商社だかに勤めていて、日曜のたびにでてきて長年、山
谷で炊きだしをすうっと黙々としてきた人を知っています。そういう人は前面には絶対
にでてこないし、あまりヘラヘラしゃべらない。新聞やテレビなんかにちゃらちゃらで
てこない。無口です。総じて。人にえらそうに説諭しない。
そういう人は野宿者にたいして、とってつけたようなやさしいことばなんかいわないの
です。助けるということはもっとリアルな、困難なことで、それが善であるとか、救済
とかというようなステレオタイプのとらえ方をしていない。(中略)見ようによっては
、ぞんざいな、どうかしたらちょっと冷たいような対応の仕方をするけれども、でも十
数年つづくような持続的な心をもちえている。それを顕彰されたいともおもっていない
。目立ちたがらない。もうほとんど死語だけれども、そういう「隠徳」というものがか
つてあったし、おそらくいまもありうるのだとおもうのです。(中略)そういうのを、
これはすばらしい日本語ですが、「心ばえ」あるいは「よき心ばえ」といったりもする
。日当たりのいい世界には、あるふりをしても、心ばえなんかあまりないのです。社会
の片隅で本当に傷んでいる人のために、どうかしたら妻子にもあまりいわないで、自分
の生活の一部を割いている人たちに、ぼくは百万言ことばを費やしてもかないません。
(中略)カミュの『ペスト』のなかにでてくる医者のリウーがいうことばでいえば「誠
実」には、ある種の凄みを感じるのです。


よき心ばえの持ち主は思想的には意外と保守的な考えかもしれない。でもあるべき人間
の基本みたいなものが備わっている。路上生活者は臭い。しかたなく臭い。抱きおこす
だけで吐き気がするくらい臭い。だけど、ぼくはそれを抱きおこすからえらいといって
いるわけではないのです。そうではなく、景気がよかろうと悪かろうと持続する精神が
あるということが、やっぱり注目に値すると率直におもいます。
(中略)「陰徳あればかならず陽報あり」といいますが、ほんとうは「陰徳あれども陽
報なし」なのです。報われたら陰徳にはならない。「善人がその善ゆえに滅び、悪人が
その悪ゆえに長らえることもある」と旧約聖書はいいます。誠実とはだから、自他との
ほとんど自己破壊的で、自己犠牲的で、永久的なたたかいからしか生まれないのではな
いでしょうか。
ぼくは徒労だらけの、まちがいだらけの人生でしたけれども、いろいろな場所で、人の
誠実ということにそれはそれは教えられました。それはぼくが他者からあたえられた、
照りかえされた誠実の凄みです。


他の人にいうことではなく、自分にいつも問うていくしかない。毎日、なにをしたらい
いのか、なにをすべきかを自問する。よく「適切に」という。でも、適切なんかないの
です。たぶん、本当に納得しうる選択肢などない。(中略)救う、助ける、手を差しの
べる、いつくしむ・・・以上の高次の関係性を、私たちはもっと想像してもよいのでは
ないでしょうか。それは、ともに考え、ともに苦闘する変革の主体としての関係性です
。現在、焦眉の課題は貧困の救済にあるようにいわれますが、また、それには道理があ
りますが、事態の焦点は遅かれ早かれ、救済からたたかいへと移るのではないかとぼく
は予想します。末期症状の現代資本主義に生きているぼくらは、どのみち、いまの階級
矛盾から逃れることはできません。階級対立のただなかにあっては、つきるところ、一
般的に救うか救わないかではなく、たたかうたたかわないかしか選択の余地がないとも
いえます。たたかうことにより、変革の主体としての自己を救うしかありません。(中
略)たたかうということばは好きではないけれども、ぼくが好むと好まざるとにかかわ
らず、たたかいは生まれてくるとおもうし、人間が生存権社会権というものをうばわ
れて剥きだしになったいまはじめて、人間とはいったいなにか、人間とはどうあるべき
なのかという問いとともに、それをひとつの闘争のプロセスのなかから見いだしていく
ということがあるのではないかと思います。


愛とか誠実とか尊厳というのは、けっして穏やかにしていなさい、怒るなということで
はまったくない。不当なことにたいして怒れということでもあるとおもうのです。ただ
それには、なんらかのかたちで、助けあう必要もあるだろうし、あるいは助けあってた
たかう必要もあるのではないかとぼくはおもいます。
こういう奈落の底で人智というものがどう光るのか、あるいは光らないのか。そういう
ことが証明されるときがいまはじめてきているのではないかとおもうのです。


前述しましたが、プロレタリアートの時代とちがって、組織的にも精神的にも、人はも
っと分断されている。お金がある人間もない人間も、どんな人間でも、自分が分断され
て、世界から切断されているという意識だけはもたらされている。それから無力感、寄
る辺なさももっている。
でも、その寄る辺なさと存在の哀しみみたいなものも、それがいつ終わるのかという不
安も日常化されて、みんな慣れっこになっていく。(中略)矮小化され、閉ざされてい
く、切断された人間の内面というものを、どうしても打破する必要があると思うのです

それはかつてのプロレタリアートのような関係性を取りもどすということではない気が
するのです。(中略)そういう寄る辺ない哀しみと不安のなかに落としこめられた自分
を、自分のことばで懸命に語っていくというか、対象化していく。そういう最小単位と
しての自分から自分を表現していく。モニター画面だけではなく、生身の人間にたいし
てそれを訴えていく、表現していくということが、とてもむずかしいけれども必要だし
、それを激励していくということが、まったくきれいごとではなく必要だとぼくはおも
うのです。
なにを、どんな声で、どう歌うのか。なにを、どう着るのか。着るものに、なにが、記
されているのか。なにを、どんな声で、だれに語るのか。どこを、どんな面差しで、ひ
とり歩くのかーそれらにぼくの内面は決定的に、抗いがたく、影響されます。


危機に瀕したときに人はどうするのかということを、その類型みたいなものを、小説の
世界で、映画の世界で、ぼくらの世代はたくさん見てきたわけだけれども、しかし、ど
こにも当てはまらないのがいまだとおもう。錯綜して重層的な、いわゆるパニックとい
うか、経済だけではない、精神世界もまた、それから自然災害的にも、あるいは疫病的
にも、危機的状況にさらされている。惨状はまだたくみに隠されている。でも、なにが
起きるのか断じることはできない。


2009年のいま、歴史的にはどの場所にも当てはめることがかなわない視えない奈落が広
がっているときに、この社会がどこまで堕ちていくのか。あるいは堕ちているのに堕ち
ていないと人びとはどこまでいい張るのか。(中略)それからぼくはおもう。大まじめ
に人間の物語を書いてきた先達たちは、もしも、いま生きていて、これを見たらなにを
いうのかを聞きたい。それは経済学者ではない。むしろ逝ってしまった作家や哲学者た
ちに、あるいは詩人たちにいまを見せたい。そしたらどういうものを、どういう文を書
くのか。どういうことばを紡ぐのか。あるいはかつての映像作家たちがこの事態をどう
撮るのか。
いまは、まだ撮りえてない、書かれてない、書きぬかれていない、描かれていないとお
もうのです。自分にはとうていやることはできないだろうけれども、ある種の本能とし
て、いまの世界をなんらかのかたちで、必死になって表現しなければいけないとおもっ
ています。
(ここまで)