【報告】近藤紘子さん講演会

7月4日、近藤紘子さん講演会「ヒロシマ、70年の記憶〜被爆・平和・アメリカ」を開催しました。ご来場いただいたみなさま、改めてありがとうございました。また多くの方に関心を持っていただき、企画を応援いただきましたこと、心より感謝申し上げます。

紘子(こうこ)さん(とずっと呼ばせていただいているので、以下も)は1955年、10歳のときに渡米し、お父様の谷本清牧師をフィーチャーした人気テレビ番組、「This is Your Life 〜Kiyoshi Tanimoto」に家族で出演します。そしてそこで原爆投下機エノラ・ゲイ副操縦士だったロバート・ルイス元大尉=キャプテン・ルイスに出会います。
幼い頃から、お父様の教会に集まってきた「お姉さんたち」(いわゆる原爆乙女と呼ばれた人たち)にかわいがられていた紘子さんは、被爆で醜く変形してしまったお姉さんたちの容姿に心を痛め、原爆を落とした人たちにいつか自分が復讐しようと思っていました。
突然目の前にその相手が現れる。でも番組でキャプテン・ルイスは、原爆投下直後の広島の街を上空から眺めて「My God, What have we done?(おお神よ、私達は何てことをしてしまったんだろう)」と思ったと語り、涙を流す。
紘子さんは、今までは広島の人のことしか考えていなかったけれど、原爆を落とした人もこんなに苦しんでいたのかということに気づき、衝撃を受けます。この体験が紘子さんの活動の原点です。
講演会の最後に、この60年前の番組を観ていただきました。

(映像は司会者と谷本牧師です)
本牧師、そして紘子さんの足跡をたどると、生きた歴史のような親子でいらっしゃると改めて思います。


谷本清さんは、爆心地から3kmの町で疎開作業をしていて直接の難を免れますが、広島市内に引き返して救護活動に従事します。その後、原爆の急性症状で生死の境をさまよいますが回復。1946年春、ピューリッツァー賞作家ジョン・ハーシーの取材を受けます。これが世界初の原爆被害ルポルタージュ、「ヒロシマ」として米国の雑誌『ニューヨーカー』に掲載されると大反響となります。『ヒロシマ』により、谷本さんの生存を知った知人たちの働きかけで、1948年10月、米国メソジスト教会組織の招請により渡米。15カ月間に渡り31州256都市で講演を行い、広島の惨状と平和を訴えます。1951年の第2回講演旅行ではアメリカ上院で開会祈祷を行います。しかし国内では、占領軍によるメディア統制(プレスコード)のために、原爆被害の実情も、谷本さんの活動もよく知られていませんでした。1950年8月、ヒロシマ・ピース・センターを設立し、ジャーナリストで作家のノーマン・カズンズとともに、原爆孤児の精神養子縁組(アメリカ人が特定の子どもの親代わりとして手紙やバースデーカードを送るなどして支える)や原爆乙女の治療運動に取り組みます。そして1955年、原爆乙女の渡米治療が実現。このとき家族でTV出演します。


戦後すぐにアメリカで広島に関する講演活動をしていた人がいたことは驚きだと思います。
日本では売名行為などと悪口を言われることも多かったそうです。
資料からはアイデアと実行力の人だったこと、そして大変なご苦労があったことがわかります。
ルポ「ヒロシマ」は、著者ハーシーが40年後に広島を再訪したときに取材した「ヒロシマ その後」を加えた『ヒロシマ 増補版』が法政大学出版会から出ています。谷本さんの40年間、そして紘子さんの記述もあります。

紘子さんは生後8ヶ月のとき、爆心地から1.1kmの牧師館で被災。お母様の腕に抱っこされたまま建物の下敷きに。でも意識を取り戻したお母様がはい上がって助かります。その後急性症状の高熱と血便が出て一時は危ないと言われますが回復します。町で生き残った乳児は紘子さんだけだったそうです。10歳で渡米したとき、ノーベル賞作家パール・バックの家にもしばらく滞在します。パール・バックは谷本清さんの支援者の一人でした。彼女は黒人を含む子どもを何人も養子にしていて、紘子さんはこのことに驚きます。紘子さんは親に恵まれない子どもの養子縁組を長年手がけていらっしゃいますが、その原点はパール・バックだったのです。被爆者として傷つく体験があり、十代の半ばからは広島からできるだけ離れて生きようと考えた紘子さんでしたが、いろいろなきっかけがあって気持ちが変化し、やがてお父様の活動を引き継いでいかれます。


講演で紘子さんは、時折広島弁と英語を交え、また当時のことを思い出して涙ぐみながら、お父様とご自身の体験を語られました。最後に反戦への強い思いを一言述べられました。お話もさることながら、ご来場の方には紘子さんの「輝き」「パワー」を感じていただけたことと思います。

今回改めて思ったのは、アメリカという国の、大国としての合理主義的で残酷な面と、寛大で、優れた個人を認め、金銭的にも精神的にも支援を惜しまない人たちがたくさんいるという両面です。原爆投下を行いながら、一方で谷本清さんの活動に拍手を送り、上院議会に招いたり、テレビ番組で取り上げたり、原爆乙女の滞在治療のために多くの人が尽力する。


紘子さんは2014年にウェブスター大学で名誉博士号を授与されましたが、ウェブスター大学は原爆投下を決断したトルーマン大統領の出身、ミズーリ州セントルイス)にあり、町には「トルーマン通り」もある。でも縁あって授与が決まって卒業式でスピーチし、たまたまその日5月11日は紘子さんがキャプテン・ルイスに会った日でもあったので、セントルイスの市長は「Transformative memorial(←ちょっとあやふやですいません)Day」すなわち「変身の日、認識が変わった日」と決めたそうです。そして紘子さんはなんとセントルイス・カージナルスで始球式も行ったのです。日本じゃ考えられない!
そのようなアメリカやアメリカの人と出会うことによって、紘子さんも原爆乙女の女性たちも憎しみを乗り越えていったという、その事実の重みに胸を打たれます。


この報告だけでは抜け落ちていることがたくさんあります。被爆者として経験された辛い出来事についてはここには書けません…
ご著書『ヒロシマ 60年の記憶』は単行本、文庫ともに絶版ですが、古書店で入手できますのでぜひ。


最後に私が今回のイベントを開催することになったいきさつを簡単に。
ほぼ東京で生まれ育った私は、夫の転勤に同行して1995年春から2年間広島に住みました。戦後50年の年、ちょっと英語ができたのでいろんなお手伝いをしたのですが、それを通じて見たこと、知ったこと、出会った人たちのインパクトがあまりに大きく、繰り返し衝撃を受けました。それ以前にも広島には来たことがあって資料館も見たはずなのですが、やっぱり生身の人を知って、向かい合って、体験や事実の細部を知るということは全然違うのだと人生で初めて知りました。


紘子さんと知り合ったのは大阪在住のときで、1998年に縁あって参加した立命館大学アメリカン大学(American University /Washington D.C.)の広島長崎研修プログラムでした。そして2000年頃から、当時大阪・北千里にお住まいだった紘子さんのお宅で谷本牧師の資料整理を行いました。
当時はまさか自分が紘子さんの講演会を企画する日が来るとは夢にも思わず…^^
1年以上前から講演会を企画しなければと思っていたのですが、延び延びとなっていました。このたびようやく実現し、感謝の気持ちでいっぱいです。


20年前に知り合ったり、お話を聴いた被爆者の方、またお会いしてはいないけど本やメディアでお名前を知った方が一人、二人と他界され、原爆乙女の一人として講演活動をなさっていた方も数年前に逝去され、生き証人のような方がいよいよいなくなっていく。このことだけは確実で、取り返しがつかないことに思えるので、大したことは何もできないでしょうが、自分ができることをたぶんこれからも考えていくと思います。

1985年に出版された本です。Maidensは乙女。翻訳は出ていません。
当日配布した資料は、この本の序章「This is Your Life」でした。
考えがあって10年以上前に仮制作したものの、そのまま放置していた私の訳です。