東海亮樹、東海明子の友人知人のみなさま、そら庵を応援いただいたみなさまへ

7月最後の日曜日に。
このたび、そら庵を共に運営していた夫、東海亮樹が急な病に倒れ、
7月21日に永眠いたしました。享年48歳でした。
7月25日と26日に通夜と葬儀・告別式を執り行いました。


葬儀はおかげさまで本当に多くの方にご会葬いただき、滞りなく終了いたしました。
ご多用のところご参列いただいたみなさま、お花や弔電をお送りいただいたみなさま、
お手伝いいただいたみなさま、お心を寄せてくださったみなさま、
誠にありがとうございました。
東海は照れくさそうに喜んでいたことと思います。また遺された私達の慰めともなりました。


ただ、ほとんどの方にきちんとお礼を申し上げられず誠に申し訳ありませんでした。
また改めてご挨拶いたします。


SNSを含むネットでは本日までお知らせを行わなかったため、生前東海とご親交があり、
この投稿で訃報を知ることとなった方も多々いらっしゃることと存じます。
突然のお知らせとなった失礼を心よりお詫び申し上げます。


通夜の席で行った喪主挨拶です。


「本日はご多用のところ、故・東海亮樹の通夜に足をお運びいただき、
誠にありがとうございます。
東海はつい先日まで、共同通信文化部の記者として、取材、執筆を行っておりました。
そのかたわら、近年はここ深川で、さまざまな活動を行っていました。
共同通信の地方勤務から東京に戻って居を構えたのが深川でした。


私が店主を務めたカフェを一緒に運営したり、
無料情報誌「かわら版 深川福々」の編集長をボランティアで務めておりました。
また4年前からは深川を舞台にした自主映画「小名木川物語」のプロデューサーを務め、
今年ようやく、念願だった完成披露上映会を開催したところでした。


あちこちで充実した時間を過ごしておりましたが、7月5日、突然、
急性大動脈解離を発症して救急搬送され、12時間を超える大手術を受けました。
何とか手術を無事乗り越えたのですが、発症の過程で心臓にも影響が生じたようで
心臓が完全に復活せず、人工心肺補助装置を付けて回復を待つこととなりました。
それから2週間、顔色が良くなったり、意識が回復するような兆しもあったのですが、
残念ながら先週半ばから心臓が弱っていきました。
最後は眠ったまま、とても穏やかに旅立っていきました。


東海は昭和43年に生まれ、埼玉県狭山市入間川小学校から、
千代田区立麹町小学校に転校し、中学から高校にかけては筑波大付属駒場に通いました。
慶應義塾大学経済学部の卒業ですが、法学部政治学科の内山秀夫先生のゼミにも参加し、
メディアへの道に進むきっかけとなりました。
私は東海と1990年に内山先生のゼミで知り合いました。
92年に共同通信社に入社し、宇都宮、広島、大阪の各地方支局や支社で勤務し、
2003年から東京本社の文化部で記者を務めました。


本日は生前からご親交いただきました方々にお集まりいただき、
さぞ喜んでいることと思います。でもすごく照れ屋でもありましたので、
恥ずかしそうに縮こまっているかもしれません。
東海はたくさんのアイデアと夢を抱えていました。また中国にも何度も訪れ、
これから更に知見と経験を深めたいと話していたところでした。本当に残念でなりません。


最後の地となった病院は、江戸時代に作られた運河の一つ、横十間川のほとりにありました。
またここ、平安祭典のすぐ裏は、東海がプロデュースした映画のタイトルとなっている、
小名木川が流れています。奇しくも本日は小名木川で、
戦災の犠牲者や亡くなった人を慰霊する灯籠流しの当日でした。
闘いを終えた東海を、最後は川がやさしく見守ってくれたように思います。


微笑んでいるような安らかな顔で眠っておりますので、
ゆっくりお別れしていただけましたら幸いです。
ここに生前のご厚誼に対し厚くお礼を申し上げます。
本日はありがとうございました。
2017年7月25日


東海は、いつの頃からか何度も
「おれの葬式では『天国への階段』(Led Zeppelin)を流してほしい」と言っていました。
そこで葬儀では『小名木川物語』の音楽監督を務めた岡野勇仁さんにお願いして、
映画のサントラと共に流していただきました。


東海は中2のときに、「レッド・ツェッペリン狂熱のライヴ」を観て、
学校の勉強をするのは今日でやめようと決めたそうです(笑)
何もやめなくてもいいのにと思うところですが、どうやら大真面目に有言実行したらしく、
入学時に上から2番だった成績が、高校の頃には下から2番だったと聞きました。
でもたぶん、その決意があったからこそ、私達は東海と出会えたような気がします。


東海のことだけを考えていると、無限の闇が広がっているように思う瞬間がありますが、
それを遮るように、東海と私の素晴らしい友人知人のみなさまが
手を差し伸べてくださっていることに感謝の念が尽きません。
そして「遺志を継ぐ」という言葉に一筋の光が見えるようでもあります。
とは言え、あの東海の遺志を継ぐなんて、とても私にはお手上げなのですが、
ふとした折に、妄想混じりに語っていた、アイデアや夢のかけらの一つぐらいなら、
ささやかに形に出来るかもしれません。


東海亮樹は素晴らしい人でした。
20数年の間にはいろいろなことがありましたが、
パートナーとこのような気持ちでお別れできたことは、とても幸せなんだろうと思います。
これまで東海を温かく見守ってくださいました皆様、誠にありがとうございました。



東海はヒマワリが好きだったので、葬儀で飾っていただきました。それをアレンジメントにしたものを、いま自宅に供えています。ついでに言うと、イタリア映画の『ひまわり』も大好きでした。



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あらかじめご了承いただけますと幸いです。)


東海明子